少し歩いてみよう、と思ったのが間違いだったのかもしれません。夜勤明けの勢いでした。一週間ほど続いた長雨が止み、からりと晴れた青空に、ついと惹かれたのもありました。私の移動手段と言えば専ら電車でして、仕事でも電車に乗りますから、久しく歩いていないような気がしたのです。それで、たまにはと、最寄駅の一つ前で下車したことが始まりでした。
線路沿いに進めばいつかは着くと楽観していた私でしたが、歩けども、歩けども、鬱蒼とした山野が続きます。ほんの一時間程度で着く予定でございました。腕時計をちらりと見ると、その予定を三十分ほど過ぎています。これでは遅延どころの騒ぎではありません。体力には自信がありましたが、なにしろ夜勤明けです。疲弊した体と眠気に、足はどんどん重くなるようでした。なんと無謀な思いつきだったんでしょう。しかしため息をついても、ここにはベッドもシャワーもありません。素晴らしい青空と、素晴らしい緑と、素晴らしい線路が広がるばかりです。歩くしかないのです。
――カン、カン、カン、カン。
すっかりくたびれた時でした。聞き覚えのない音に、俯きがちだった顔をあげて、驚きました。踏切です。踏切から発する警告音です。地下鉄に従事する身ですが、私とて鉄道員の一員――ですのに、聞き覚えのないことに首を傾げ、
「そこの貴女! 何をなさっているのです!!」
踏切内に人影を見て取ると、叫びながら駆け寄りました。
少々乱暴だったかもしれませんが、命にはかえられません。無理やりに線路から引きずり出させて頂きました。
その方は、線の細い、妙齢の女性でした。年頃は、私と同い年か年上かと言ったところ。目を大きく見開き、酷く困惑した表情で私を見上げています。
「どんな事情かはわかりません。ですが、その命無駄にはなさらないで下さい!」
女性に対し語気を荒げることは、本意ではありません。けれども、いわゆる興奮状態にあった私は、初対面の女性の両肩を強く掴み、熱のこもった強い口調で、あろうことかこう告げていました。
「ダイヤも乱れてしまいます」
――以後、これが彼女の語り草になるとは、この時は思いもしませんでした。
彼女の赤い唇が、ゆるりと弧を描きます。それが笑みだと気づくまでに、私は数秒と瞬きを要しました。
「……この音が聞こえなくて?」
「……は」
カン、カン、カン、カン。
カン、カン、カン、カン。
鳴り響く警告音――鳴り止まぬ警告音です。私は彼女から身を引いて、勢いよく振り返りました。ちかちかと点滅を繰り返す警報機を隔て、線路の中は、平和そのものでした。はて。……何故電車が来ないのでしょう。
「ここは開かずの踏切で有名なの。知らなかったのね」
「けれど、わたしもよくないことをしたわ。ごめんなさい」
かっと頬が赤くなるのを感じました。恥と、憤りと、その他諸々。感情がこれほどいっぺんに湧くのは初めてです。帽子を目深に被り直し、私はかろうじて「そうですか」とだけ返事をしました。
「しかし、ルールはルールでございます。貴女の為にも、どうかお気をつけ下さいまし」
「ええ」
「ですが、乱暴をお許し下さい。申し訳ございませんでした」
頭を下げると、くすくすと笑い声が聞こえ、私はいよいよ不快な思いでした。
「あなた、真面目なのね」
「……それでは、失礼いたします」
背を向け、足早に歩きはじめました。腑に落ちない想いとは、このようなことを言うのでしょう。徒労に終わった全力疾走のおかげで、疲労もピークに達していました。大人げないと感じながらも、苛立ちを抑えることができなかったのです。
「どちらへ行かれるの」
「次の駅です」
「こんな辺鄙なところなのよ。この先、駅はずっとずっと遠くよ。車がないと無理だわ」
そんな馬鹿な。
足を止めて、私は路線図を思い浮かべます。どう計算しても、やはり一時間程度の距離でしかありません。ともあれば迷ったのでしょうか。
線路は一本しかなかったというのに?
嗚呼。くらくらと、眩暈と頭痛がするようです。
「……お茶でもいかがかしら」
呆然と立ち尽くす私に、彼女はそっと呟くのでした。