「しっかりなさい、ほら」
「しゃんとお立ちったら」
「お水を持ってくるわね」
「きっとすぐよくなるわ」
「もし、あなた、ねぇ、」
「ひどい顔よ」「ひどい顔」
女声と男声が混じり、聴き馴染みのありすぎる後者に顔をあげれば、ひらひらと目の前で手を振る弟がおりました。いつもの顔で笑っています。きっと私の脳のキャパシティは、どうにかなってしまったのでしょう。飲み込めない状況に、窒息してしまいそうでした。
「ノボリ、無理だめ」
蹲るままの私にクダリは背を向けて、その場でしゃがみ込みました。それはつまり、おんぶ、ということでございましょう。思わず記憶が昔に飛びました。ずいぶん懐かしいこともあったものです。背に負ったことも、負われたことも、ありました。ああ、懐かしい。……懐かしい。
「クダリ」
「なあに?」
首だけ振り向いて、どうして乗らないのと言いたげな弟に、私はもうこれしか言えません。
「……ここはどこですか」
「ノボリが壊れた!」
駅員さーん! あっぼくだった!
ばたばたばた、と急いではいるものの、けれど決して走ってはいない足音が遠のいていきます。いかなる場合でも、駅構内では危険ですので走らないでください、は、私達には染み付いている慣習でございました。
そこで、はたと気付きました。
駅構内。
見渡してみれば、通路も、改札も、切符売り場も、ゴミ箱も、自販機の数ですら、隅々まで把握している――最寄り駅の只中に、私はいました。平日の昼前、閑散として人もまばらでしたが、何人かが訝しげに、あるいは心配そうにこちらを見ています。お客様に迷惑をかけるなど言語道断。反射的に立ち上がれば、また、くらりと眩暈がしました。
呼吸を正しながら、一つ一つ思い出していきます。整理のようなものです。
私に何が起きたのか。
私はどこにいたのか。
私は、誰といたのか。
「ノボリ。宿直室、使ってもいいって」
戻ってきたクダリが、そう言いました。私が夜勤明けであったことを、ほぼ同じ業務に就いている弟が知らないわけがありません。時間をずらし、先に上がらせて頂いた数時間前が、酷く前のことのように感じます。
「いいえ、帰りましょう。クダリ」
この駅はあくまで、私達の家の最寄り駅であって、職場ではありません。
きっぱりとした私の物言いに、クダリは一度、のみならず二度、三度、私の周囲をぐるりと回って、確かめるようにしてから、納得したように頷きました。私の弟は聡明で、慎重深いところがあるのです。
「わかった」
「ありがとうございます」
私はまずクダリに。それから宿直室の使用許可をくださった駅員のところへ赴き、礼を述べました。
今度こそ、歩けばすぐ家に着くのです。駅から数分、線路沿いの素晴らしい立地条件下に、私達の家があります。
「わかんない」
ずずず、とクダリがお行儀悪くアイスコーヒーをすすります。私は自分にホットミルクを淹れました。
帰宅して、一から順に説明しますと、弟は首を傾げるばかりです。私だってそうなのですから、当然でしょう。知らない線路、知らない遮断機、知らない信号、知らない駅。思い出してもぞっとします。
しかし、夢を見たとは、思っていませんでした。
夢で、お腹は満たされません。私は頂いたお料理のあたたかさを覚えています。壁一面を本が埋めた、あのさみしい部屋の空気も。彼女が空を指差し、くるくる回したこと。「なかよしなのよ」と得意げに笑った声。そして――鳴り続ける遮断機を無視して、踏切を渡ろうとした彼女。
「でも、ノボリ、すぐ家に招待された」
クダリは、いつもの笑った顔でしたが、私の話を笑うこともなく、疑うこともなく、言葉を続けます。
――嗚呼。我が弟は、なんと聡明なことでしょう。
「じゃあ、その人。踏切、渡る必要、なかった」
何故か。疑問と同時に浮かんだ答えが、もう頭からこびり付いて離れてはくれません。
ちっとも減らないカップの中身を睨む私に、クダリがぽつんと呟きます。
「理由、一つしかない」
“その命無駄にはなさらないで下さい!”
私の叫びは――間違いではなかったのです。