対岸への手紙

 女には身寄りがない。身寄りはないが、幸いなことに周囲には恵まれた。村の人々は優しく、善良で、女もそう育った。豊かとは言えない暮らしでも十分に笑っていられた。まだ若く健康であったし、働けば働くほど恩義を返せると思う、愚直なほど素直な女だった。
 さて、そんな女も花が咲き誇るお年頃。女は恋に落ちる。相手は、会ったこともない軍人さんだという。
 経緯は、こうだ。
 村には同じ年頃のメアリという女がいた。若者が少ないこともあって、二人はたいそう仲が良いことで評判だった。
 そのメアリには婚約者がいて、もう長いこと会えずにいるが、一つの愚痴も零さず、たまに来る手紙を大事に大事に胸に抱く。いじらしく愛らしいメアリを、微笑ましく、また羨ましいと女は思っていた。
 それまで女は、恋をしたことがない。頬を薔薇色に染め、柔らかな色彩の睫毛を伏せるメアリは美しかった。
 恋とは、どういうものかしら。
 ある日、村に写真屋が来る。写真機はまだ珍しく、辺境の村では滅多にお目にかかれない代物だった。そこで女がお節介を焼く。こんな花の見頃のごとき乙女を、婚約者が拝まずにしてどうするか、と。恥じらうメアリのためまず二人で撮って宥めすかし、写真屋とああでもないこうでもないと言い合って、無事に最高の一枚を収めることが出来た。
 誤算と言えば、メアリが自分と二人で撮った写真まで婚約者に送ってしまったこと。
 暫く経ってメアリの婚約者から返ってきた手紙には、律儀にも写真が同封されていたという。更に更に律儀なことに、友人と共に撮った一枚も一緒に。くすくす笑いながらメアリが見せてくれたそうだ。
 果たしてそこに、女の初恋が写っていた。
 立派な調度品に囲まれた部屋。皺の一つもない軍服。緊張しているのか、少し硬い表情をしているメアリの婚約者。
 それらは、見えているはずなのに、目に入らない。
 メアリの婚約者――その隣で、柔和な笑みをたたえている、青年。
 女の心臓と血は、ひっくり返ってしまった。
 何せ生まれて初めてのことで、自分に何が起こったのかわからない。様子のおかしい女に、メアリは酷く慌てふためいた。
 それから何とか気を取り直し、素敵ねぇと二人でこそこそはしゃぎ合った。
 女は、三日三晩、青年を夢に見た。
 物思いにふける時間が増え、少しだけ食事の量が減った。
 メアリに頼んでもう一度写真を見せてもらった時には、最初に比べればいくらか冷静だったが、鼓動だけは早鐘を打つ。そして、そこでようやく、恐ろしく顔の整った男だということに気付いてしまい、目眩さえ覚えたのだった。
 そんな女を前にして、メアリが心配しないわけがない。
 ただ、どうしていいかはわからない。
 婚約者へ近況を報せる折に、そのことを数行綴る以外には。
 かくして、女の元に青年から手紙が届く。
 内容は当たり障りのないもので、時候の挨拶と、女を気遣う簡素な文章が添えられている。
 女が見た中で、世界で一番綺麗な文字だった。
 女は酷く混乱し、狼狽え、戸惑い、そのまま全ての感情を文字にしたためた。
 不格好で下手くそな字であることを恥じ、それらも書き綴って謝罪した。
 そんな拙い手紙にも、返事が来る。
 文通が始まった。
 女は、何もかもを書いた。
 己の生い立ち、村での暮らし、親切な人々、親友のメアリ、恋を知らなかったこと、恋を知ったこと、心臓と血がひっくり返った心地がしたこと。三日三晩夢に見たこと、物思いにふけってしまい食事も喉が通らなくなったこと、改めてお写真を拝見したらとても格好よくて驚いたこと。貴方の文字を何度見てもため息が出てしまい世界で一番綺麗な字だと思っていること、一度も会ったことのない貴方を慕い手紙を送ることを許して欲しい、と。何もかも全て。
 愚直なほど素直な女だった。
 思わず手紙を読んで、笑ってしまうくらいには。
 対岸の女だ。どちらか死ねばそれまでのこと。会うことはない。声を聴くことはない。何かを託すこともない。
 女の親友の婚約者は、いつか村へ帰るだろう。そうでなくては。そうでなくては、そこが対岸である意味がない。
 自分は決して、渡らない。
 ただ、少しだけ真似事をしたかった。
 傍らに置く、愚直なほど素直な男の真似事が。
 手紙が来たら、手紙を読んで、手紙を書く。いつもより随分軽い万年筆を手に取って。味のしないインクを詰めて。薄い便箋に文字を走らせる。
 真似事は存外、悪くはなかった。

 悪くは、なかったよ。



 女は、憔悴していた。泣き腫らした目。しかし真っ直ぐに、毅然と前を向く目。とっくに覚悟をしていたようだった。
 つよくてやさしい子よ、いつも励ましてくれるのと、彼女から何度も聞かされていた通りの女だった。
 だから、躊躇わずに告げる。
 ミハイル・ブラッドベリは死んだ。
 そう、と、一度だけ女が笑う。

 女は、のちに彼女の乳母として働いた。村の皆から愛されていたが、縁談は全て断っていた。老いて病に倒れ、最期は眠るように亡くなったが、枕元の傍らには何かを燃やした灰があったという。