憧憬

 マスターはこの家につくと、決まりごとのようにその部屋に行くんだ。
 ぼくはもちろんついていく。
 部屋の床は緑色で、草のいい匂いがする。ふしぎ。
 木の台にいろんな物が乗っていて、マスターはそこでマッチをすって、ろうそくを灯す。
 いつもと同じ。お香に火をつけ、鐘を鳴らし、手を合わす。
 ぼくはマスターの真似がしたくて、からだの一部で手をつくった。
 手を合わせるぼくを見下ろして、マスターがくすっと笑う。
 ぼくのだいすきなマスター。
 見上げると、マスターの頭の上より、ずっと高いところに、何かがあった。
 写真だった。ぼくもマスターに何回か撮ってもらったことがあるから、知っている。
 写真は白黒で、どれも笑顔だ。どうしてあんな高いところに飾ってあるんだろう?
 ぼくはつくった手で、指さした。あれなあに、のポーズ。
 マスターは気になる? と笑ってから、教えてくれた。
「あれはね、わたしのご先祖様たちだよ」
 ごせんぞさま、たち。
 ぼくにはマスターの言っていることが、よくわからなかった。でも、
「いつも、見守ってくれてるの」
 やさしい声。ぼくのだいすきな声。だから、マスターにとって大事なものだってことは、ぼくにだって、ちゃあんとわかった。えへん。
 白黒笑顔は、どれもこれも、マスターに似ている気がした。“ごせんぞさま”だからかな?
 よく見たら、白黒じゃないやつが一枚だけ。一番はじっこに、あった。
 そうだ、これなら。
 ぼくは思い立って、からだをふるわせる。ぼくが、マスターにできること。
 さあ、かわるよ。
 かたちは、マスターをまねっこ。でも顔だけはちがう。あの一番はじっこ、やさしそうな、マスターによく似た誰かさん。
 ぼくのからだが熱をおびる。目線がぐんと高くなる。マスターの顔が近くなる。
 ――瞬間、マスターの顔が見えなくなった。
「!?」
 びっくりした。マスターは、ぼくを抱きしめたまま離さない。
 いつもより、ずっとずっと、強い力で。ぎゅうって。
 痛くはないけど、どうしてか苦しい。
「ばか……っ!」
 マスター。マスター。どうしたの。ねえ、マスター、泣かないで。
 びっくりして、困ってしまって、でもどうにかしたくって。
 そこでぼくは気づいた。そうだ、今のぼくには。
 マスターと同じ、腕がある。
「……」
 ぼくはマスターを抱きしめる。ぎゅうって。
 泣かないで。
 祈りをこめて抱きしめる。
 どれくらい、そうしてたろう。ろうそくが燃えきって、消えちゃった。
 マスターはゆっくりと、ぼくを離した。
 涙でびしゃびしゃの顔だった。
 見た瞬間、ぼくのからだはもとの姿にもどっていく。ああ、マスター、ごめんなさい。
 泣かせたくなんて、なかったのに。
 泣き顔が見ていられなくて、足元にすり寄ると、マスターはぼくをひょいと抱き上げた。
 お、怒られる? 怒られる?
 びくびくするぼくを見るなり、マスターはぷっと噴き出した。
 ……あ。
「ありがと」
 マスターが、笑ってくれた。
 涙がきらきらしてて、とってもきれい。
 ――きっとぼくにも、真似できない。
 その笑顔の後ろで、写真も、笑った気がした。