車掌さん、終点ですよ

 確かに以前、貴方の綺麗な敬礼がすきだと言った覚えはあるけれど。
 毎日欠かさずしているに違いない仕草は洗練されていて、指先から爪先までとても綺麗で、見惚れるほど格好良い。けれど。
「ただいま帰りました、{{ namae }}様!」
 玄関のドアを開けた先で、そうノボリが敬礼していた。
 覚えていてくれて嬉しい、場違いで逆に面白い、とか、事前に来るとは聞いてたけどいつもより早いね、とか。そもそもここは私の家でノボリの家じゃないでしょ、とか。どれから突っ込もうかと考えて、私は結局、
「おかえりなさい」
 笑顔で迎え入れることにした。瞬間、両肩にのしっと両腕が乗ってきた。自然と顔がノボリの胸元に埋もれた。
「疲れましたー」
「おつかれ様」
 そのままのしかかってくるので、笑いながら抱き止めた。
「重たいよ」
「ノボリの! のしかかり! でございます!」
「はいはい」
 私は普段よりもお茶目な生き物の後ろにまわってコートを脱がした。長い長い夜勤から解放されて、その足ですぐここに来てくれたのだろう。いつもは自宅に寄って身支度を整えたり、必要があれば仮眠してから来るのに。お茶目なのは眠気のせいかもしれない。可愛い。
 ノボリはネクタイを緩めながら、
「あの続きはどうなりました?」
 語尾を弾ませてそう言った。部屋に招き入れて、コートかけにコートをかけながら、私はくすっと笑ってしまう。続き、とは毎週月曜九時からやっているドラマのことだ。サブウェイマスターの他、通常業務に夜勤を含む駅員さんにはなかなか縁遠いものらしく。録画したものを観せてあげたら、私よりもはまってしまったのだった。ノボリには悪いけれど、意外すぎてちょっと可笑しい。
「まだ私も観てないから、一緒に観よう?」
「そうでしたか。ありがとうございます」
 ノボリが帽子をとって笑ったと同時に、ぐう、と可愛い音が聞こえた。
「その前にごはんだね」
「……お恥ずかしゅうございます」
 静かに帽子を目深にかぶり直すので、私は遠慮なく笑った。
「待ってて。すぐ作るから」
 時刻は昼前の十時過ぎ。顔を綻ばせながらキッチンへ向かう。エプロンをつけながらくるりと振り返り、
「お風呂まだでしょう、どうぞ」
 ノボリへとすすめた。当然のように、というか当然のことなのに、ノボリは何故かぼうっと突っ立ったままだ。
「ノボリ?」
「はっ。はい、お借りしますありがとうございます恐縮です!」
 そんなに眠いのかな? 私は心配になって、溺れないでねと苦笑して見送った。
「……もう溺れております」
「なにー?」
 胃にやさしいもの、と思って冷蔵庫を開ける。ノボリが何か呟いたけれど、私の耳には届かなかった。
「なんでもございません! それではお風呂へ向かって出発進行!」
 ……やっぱり眠いのかもしれない。大丈夫かな。
 その後は予想していた展開になった。さすがにお風呂の中で溺れたりはしなかったけれど。
 まず、朝と昼の間という微妙な時間だったので、軽く食べれるようにとメニューは簡単なものにした。あたためたパンとサラダ、豆と鶏肉のスープ。なのにノボリは美味しい美味しいと褒めちぎりながら綺麗に食べてくれたので、次のご飯はありったけの気合いを入れて作るつもりだ。
 次に、片付けをすると言って聞かないノボリをどうにか丸め込んで食器を洗う。仕事帰り、しかも夜勤明けの恋人にそんなことさせるわけにはいかない。食器を洗う私の横で、ノボリが鼻唄まじりにお茶の用意をしてくれている。片付けの代わりにとお願いすれば、お任せくださいまし! と二つ返事で頼まれてくれた。
 そしてお茶を片手にソファへと移動して、録りためていたドラマを観始めたのだけれど。
「まあ、こうなるよね」
 規則正しい寝息がすぐ真横から聞こえてくる。
「重たいよ」
 笑いながら、私の肩に頭を乗せるノボリに言った。もちろん言葉は返ってこない。最初こそドラマの緊迫したシーンごとに「なんと!」「そんな!」などリアクションしていた彼だったけれど、後半にさしかかるにつれ、それはどんどん薄いものになっていき。ついにはぽす、と電池が切れたかのように、私にもたれかかってきたのだった。
 外はまだ明るく、あたたかい光がカーテンごしに部屋を満たしている。気合いを入れることになるのは、どうやら夕食になりそうだ。私はゆっくりと、ソファにかけてあったブランケットに手を伸ばす。
 君が来るなら、いつだって準備オッケー、なのです。
 ノボリと一緒にブランケットにくるまると、私はそっとつぶやいた。
「おやすみなさい」