犬とハンカチ

 ――そうしたら、飴玉みたいに、ずっと口の中で転がしてられるのに。

「ねえ、{{ namae }}はさあ」
「なあに、椿ちゃん」
 呼びかけられて、{{ namae }}は上機嫌に瞳を輝かせた。賑やかな雰囲気も、他のみんなもだいすきだけど、椿は{{ namae }}の、一等、とくべつだったから。がらんとした部屋で、いつもよりよおく聴こえる椿の声が、嬉しかった。いつだってそう。{{ namae }}はなんでも嬉しかった。椿がそこにいるだけで。
「{{ namae }}はさあ、僕の犬だっけ?」
「椿ちゃん、それはちがうよ?」
 聞き捨てならないとばかりにがばりと顔をあげた。向き合ってみると、眉を寄せて、軽くねめつける椿の目線。目が合って、へらっと笑って、{{ namae }}は高らかに声を張る。
「わたしは下位だよ、もとにんげんだよ、椿ちゃんの、椿ちゃんだけの吸血鬼だよ!」
 声だけじゃなく胸も張って、おまけにどんと叩いてみせる。げほ、と咳き込む{{ namae }}に、椿はますますうんざりした様子で、わざとらしくはああ、とため息をついた。
「うわこのハンカチ喋るう」
「それもちがうよ!?」
「んもー{{ namae }}は我儘だなあ、どっちかにしてよ面白くなぁい」
「なんで二択なの椿ちゃんわたしの台詞だよ椿ちゃん面白くなぁい!」
 ぐりぐりぐりぐり、髪が乱れることを厭いもせず、{{ namae }}は頭を椿の胸に押し付ける。
「やっぱり犬じゃないの?」
「ちがうよ!」
「じゃあハンカチでいいよね」
「よくない!」
「はいはい」
 ぼさぼさ頭になった{{ namae }}を椿が撫でる。むくれた{{ namae }}はすぐ笑顔になる。犬、と口の中だけで椿が言った。
 会話が終わったので、{{ namae }}はまた、それに専念することにする。
「美味しい?」
 その問いかけに意味がないことを、椿も、{{ namae }}も、知っていた。
「ううん」
 だろうねえ、と見るからに面白くなさそうに椿が言う。
 さっきから、ずっと。
 するり、するり、両の目から、涙はあふれて止まらない。
 色眼鏡越しの、赤い、椿の瞳から。涙は、あふれて止まらない。
 目尻から零れる水滴は、本当なら、頬骨に添って、顎へ、そして首筋へ伝い、その衿をすこうしだけ、濡らしただろう。けれど、ぺろりと舐め上げる、{{ namae }}の赤い舌がそれを許さない。許せない。許したくなかった。
 でも、一人の{{ namae }}では、とうてい間に合いそうにない。目は二つ、{{ namae }}は一人、間に合わない。
 誰かいたら、どうしたらいいか、教えてくれただろうか。
 ――オトギリなら? ベルキアなら? シャムロックなら? ヒガンなら? 桜哉なら?
 ――どうして泣いてるの、
 ――泣かないで、
 そんなことは何べんも何べんも思ったけれど、結局そんなことは言えなかった。
 ――椿ちゃんが泣きたいなら、泣いてたらいい。
 ――泣いたままにしておけないのは、わたしの、わがままなんだから。
 だから代わりに膝の上に居座って、顔を寄せて舌を伸ばして涙を舐めて、{{ namae }}は犬とハンカチになる。
「椿ちゃんの涙が宝石だったらよかったのになあ」
 言えない代わりに、もう一つ、思ったことを声にする。{{ namae }}の手が、椿の“間に合ってない”右頬を包む。
「あっははははははなにそれえ?」
「それもね! 目と同じ色なの!」
 いつもの口癖が続く前にと急いで言葉を口にした。そして、想像する。
 するり、するり、きらきら、きらり。
 ――椿ちゃんの、赤い宝石。
 ――世界でいちばん、きれいな宝石。
「面白くない?」
「面白くない」
 そう言うと知って、聞いて、頷いた。いつもの椿。いつもの石榴。いつもじゃない、椿の涙。
 結局、「あ、おかえりー」「おかえりなさーい」を言うまで、ずっと、このまま。