福音のてのひら
まず、たくさん名前があるやつだ、と思った。今思えばそれは間違いで、正しくは名前が長いやつ、なのだけれど。
実際「名前がたくさんあっていいね」と言えば、怪訝そうに首を傾げられた。「一つしかない」とも。声に出して舌で転がすと、楽しい響きの名前だった。
でもやっぱりたくさんだ。長たらしいったらありゃしない。
「ねえね、とどろきくん」
だから、だいぶ簡潔にした名前で呼ぶ。しかめっ面がそれに応える。あんまり聞き馴染みがないのだそうだ。それでも振り向いてくれるあたり、嫌がられてはないんだろう。たぶん。
「とどろきくん」
「なんだ」
「呼んだだけ」
「そうか」
指はまたピアノを奏で始める。自称天使は案外律儀だ。
こういうのを、福音、と言うんじゃないかしらん。でもほんとのところ、福音ってなんだろう。きっと、とても神々しい、素敵な意味に違いない。
「天使の福音」
言ってみると、ちょっと得意げに目が笑った。どや顔だ。ほうら、やっぱり、間違ってない。特等席の地べたの上で、嬉しくなって寝っ転がった。
最初は信じられないもの(雑巾以下、くずねずみ以上)のように見られたけれど、もうそれはだいじょうぶ。言ったから。
「響くんだよ。地面に、空気に、わたしに、音が。直接、こころに、響くんだよ」
彼は一度だけ、しっかりと、深く頷いてくれた。
だから、椅子がなくても、ピアノの隣がいつだって、わたしだけの特等席。
トォンと、高い一音が通り過ぎていった。少し待って、もう少し待って、無音になったことにようやく気付く。しばしばこうなる。
曲の終わりに気付けない、もっともっと聴いていたい、からだもこころも縛られる。
とどろきくんのピアノは、そんなピアノ。
「終わりだ」
いついつまでも惚けていると、呆れた声が降ってくる。
「終わっちゃった」
わたしの声はずいぶん残念そうに響いた。だってずいぶん残念だもの。そうしたら、自称天使はどうしたと思う? あともう一曲弾いてくれる? それともそっとピアノを閉じる?
ところがどっこいどっちでも、なくって。立ち上がって見下ろしてくる視線は、どこかやさしい。
これだから、とどろきくんがすきなんだ。
「選べ」
命令系なのに、えらそうなのに、不思議と言葉に重さがない。なんでもすなおなやつでもあった。だから全然、嫌じゃない。
二つに一つを選べと言う。答えは毎回おんなじなのに。
「とどろきくん!」
差し出された手を掴んで飛び付いた。
アンコールとてのひらなら、迷ってる暇はありゃしない!