アズール・アーシェングロットと恋する魚

 ぷかり。ちいさな水槽から顔を出した、これまたちいさな人魚が、ぱく、ぱか、ぱく、と、それはそれはちいさな口を動かしました。息も吸えずに苦しいだろうに、ちいさな人魚は、嬉しそうに、にこにこ、にこにこ、笑っています。ちいさな人魚の笑顔を見た、蛸の人魚――今は人の姿です――アズール・アーシェングロットは、思わず目を細めました。もちろん、このちいさな人魚を愛らしく思っているから――では、ありません。何せ、とても、高く売れそうだからです。
 笑い返されたちいさな人魚は、一度ちゃぷんと沈んで深呼吸。また浮かんで、彼を見上げて、微笑んで、ぱく、ぱく、と口を動かしました。
 彼が寮長を務める寮は、海の中にあります。ですので、彼が支配人を務めるラウンジからは、海のうつくしさを、海のあやしさを、海のおそろしさを、いつでも臨むことが出来ました。人魚の彼には当たり前の光景が、人には物珍しいとは、なんて素晴らしいことでしょう。そこにあるだけで、金銭価値が生まれるのです。しかも、ラウンジで出た食べ残しを少し撒くだけで、わざわざ観賞用の魚を放さずとも済むのです。ああなんと素晴らしき我が寮、我がラウンジ!
 そんな風に、アズール・アーシェングロットがいつものように過ごしていたいつかの日でした。このちいさな人魚――になる前の魚――が、ちょっとした噂になっていたのです。
 鱗は色とりどりで虹色、しかも尾ひれは淡く光っている、あんな魚は見たことがない。
 これ幸いと噂にも尾ひれをつけて、見かけると幸せになれる、具体的には恋愛運が上がる、魚に願掛けをしたら彼女が出来た、などとばら撒いた結果、かなりの集客効果がありました。流石は男子校です。
 事実無根の尾ひれはともかく、はてさて、その魚はほんとうでした。泳ぐたび、きらきらと色を変え、深海の葉のように、青白く仄めく。確かに、今まで見たことがありません。人魚の彼でさえ、ついぞ知りませんでした。
 そんなことをする魚がいるなんて。
 しっかり売上を回収し、彼女がいつまで経っても出来ない男子高校生共のせいで、すっかり噂が下火になった頃を見計らってから、彼は魚を捕まえました。
 ずいぶん興味をそそられたのと、やっぱり、高く売れそうでしたので。
 何故って。
 虹色に輝く鱗――それもそのはず、ちがう魚の鱗を、何枚も何枚も張り付けていました。
 淡く光る尾ひれ――それもそのはず、深海の葉を、細く細く裂いて身に付けていました。
 擬態をするわけでもなく、明らかに、装飾の意をもって、魚は自らを飾り付けていたのです。
「素晴らしい」
 賞賛の声に、魚はゆるりと踊るように身をくねらせました。着飾る魚。さらには、こちらの言葉を解すような仕草。なんともまあ、お金の匂いしかしませんでした。
 では魚が何故人魚の姿をしてるかと言えば、誤算はウツボの二匹です。
「ねえねえジェイドぉ、人魚が人になる薬、魚に使ったらどうなると思う?」
「そうですねフロイド、使ってみたらわかりますよ」
 ――そうして、今に至ります。
 人魚のための薬ですから、魚には強すぎたのでしょう。死にはしなかったものの、なかなか魚の姿に戻らず、もう一月も経ってしまいました。
「いい子にしていましたか?」
 授業を終え、業務を終え、寝支度を終え、自室に戻った彼を、ちいさな人魚が出迎えました。まるで帰宅を祝うかのように、くるくると輪を描くように泳ぎ、二度ほど静かに跳ねてから、やっぱり顔を出して、こちらに笑いかけてきます。元々人馴れしている様子でしたが、なるべく声をかけ続けた結果、こんなにもコミュニケーションが取れるようになりました。思惑通りに付加価値を高めることが出来たので、大満足の結果です。ご褒美に上等な餌を与えてやりました。
 このように、机上に置けてしまうほどの、ちいさな人魚。滅多にお目にかかれない、着飾る習性。人によく馴れていて、愛想がよく、優雅に泳ぐ。さぞかし、その筋の好事家がお喜びになることでしょう。
 椅子に座って眺めていると、ふるり、ふるりと、ちいさな人魚の輪郭が、淡くとけはじめました。流石にそろそろ、効果が切れるのでしょう。すぐにメモを取ります。商品には、万が一でも不備があってはいけません。人魚になってからもきちんと経過観察を行い、その都度書き残していました。現在の日付と時刻を書いてみると、ほんの少しばかりの量で、一月も変身し続けたことになります。コストパフォーマンスのよさも売り文句になることでしょう。
 魚に戻ったら、人魚の姿を資料で提示し、変身薬をセットにすれば、なかなかの――いえ、かなりの利益が見込めそうです。
 それはもう、アズール・アーシェングロットは上機嫌でした。ですからこれは、完全なる戯れ。
「あなた、先程から何を訴えてるんですか? 特別に、僕が聞いて差し上げてもよろしいですよ。もちろん対価は頂きますが」
 音もなく、何度も何度も開かれた口に、ついとそんな言葉が出てきたのです。
 魚が人魚になったところで、喋れるわけがない。
「―――す、」
 そのはずでした。
 ちいさな人魚の、ちいさな口から、ちいさな声で。
 空気をたくさん吸い込んだ、かすれて聞き取りづらくとも、確かに、喋った。
 頭の中で販売価格が倍になった瞬間でした。
「つくづく素晴らしい……これはまさに、金の卵ならぬ金の魚……いや? それでは金魚みたいか……金……金の人魚……金色……、商品名は重要……キャッチコピーも考えなければ……」
 メモ用紙にガリガリと書き殴っていると、不意に、文字が滲みます。水滴が飛んできたとすぐにわかって、視線を向けると、ちいさな人魚と目が合いました。
 ぷかり。
 ちいさな水槽から顔を出し、ちいさな人魚が、ぱく、ぱか、ぱく、と、ちいさな口を動かして。息も吸えずに苦しいだろうに、ちいさな人魚は、にっこりと笑います。
「す、き」
 とろけるような、笑みでした。
 そうしてそのまま、ほんとうに、ほろりととけていきました。
「すき」
 ちいさな声を残して、ちいさな人魚は、ちいさな魚に戻ります。
 ちゃぷん。今度は水が跳ねないところを見るに、抑えて泳いだのでしょう、それくらい知恵のある魚です。水槽の中で、魚は身をよじらせながら泳いでいました。
 まるでもじもじと照れるみたいに!
「……これは、これは」
 アズール・アーシェングロットは、鳩が豆鉄砲を食らったという陸の言葉を思い出していました。
「ジェイドとフロイドに笑われそうだ……」
 求愛されるなんて、誰が思うでしょうか?
 まさか、勘違いしてしまったんでしょうか? 己が、魚ではなく人魚だと。
 魚は、魚です。人魚ではありません。人魚の姿になったからと言って、人魚ではありません。紛い物です。
 自分が今、人の姿であって、人ではないように。
 肩を盛大にすくめて――はあ。
 おおきなため息が、ちいさな魚の上に落とされて、少しだけ水面が揺れました。


「あれえ、珍しーじゃんアズールぅ? どしたのー? 見て見てジェイド、アズールが夜食くってる」
「ほんとうに珍しいですね。常日頃カロリー計算に勤しんでいる貴方が、どういった風の吹き回しで?」
「それおいしい? オレもたべていーい? だめ? けち」
「……おやおや。アズール、夜食にしてはずいぶん高級食材ですね。というか僕のきのこ勝手に使いました?」
「えぇーアズールばっかずるーいオレにもちょうだーいキノコはいらなーい」


 尾びれから頭に向かって、包丁の背で逆撫でするだけで、虹色がきらきらはじけました。ついでに、深海の葉もこそげ落とします。丁寧に鱗を取ったら、頭を落とします。腹びれの付け根に切れ込みを入れます。腹を割いて内臓を取ります。一度洗って、胴体を上身、背身、下身に分けていきます。
 黙々と捌いて、骨も外してしまえば、魚は、すっかり切り身になりました。
 割に合わない、時間の無駄だった、採算が取れない、愚痴を吐きながら、調理は続けられます。ウツボの片割れが取ってきたきのこがありましたので、一緒に蒸すことにしました。ほんとうはバターを使いたかったのですが、もう夜も遅いですし、カロリーも気になるところでしたので、オリーブオイルで代用します。味付けは、シンプルに塩と胡椒、砕いたコンソメ。
 蒸している間、骨をばりばりと食べました。落とした頭も食べました。少し迷いましたが、取り除いた内臓も丸飲みにしました。強烈な苦みと、上等な餌の味がしました。
「っふ、ふふ、ははははっ!」
 アズール・アーシェングロットは、たまらず、声を上げて笑います。
 まんまと、してやられました。
 ――特別に、僕が聞いて差し上げてもよろしいですよ。
 だからこそ、ここぞとばかりに言ったのでしょう。
 ――もちろん対価は頂きますが。
 魚が払える対価など、その身一つしかありません。
 知恵のある魚でした。わざと水滴を飛ばして気を引き目を合わせ、愛を告げてくる魚でした。ですから、おそらく、正しく理解していたのでしょう。
 勘違いなんてとんでもない!
 さいごまで、魚として。
 “彼女”は自ら、恋した人魚の血肉になることを、選んだのです。
 アズール・アーシェングロットは恭しく一礼を捧げると、おいしく蒸し焼きにされた魚を食べはじめました。途中でやって来た二匹のウツボには、一口もあげませんでした。
「これは、僕の対価ですからね」






あのとき海にいたものなら
みんなみいんな知っている
くろい渦といっしょに押しよせてきた
蛸の人魚の叫びごえ
つんざくような叫びごえ

それからわたしおかしくなってしまったの

種族がちがう?
世界がちがう?
わたしたちはただの餌?
その通り!

だからそれでいいの
それがいいの
だってわたしは
わたししか持ってない

あなたの一部になりたい

かれの目にとまるには工夫がひつよう
まずはうんときれいにならなくちゃ
誰よりもきれいにならなくちゃ

ひかる葉をつんでドレスにしましょ
鱗をさがすもはがすも慣れたもの
色とりどりのわたしはとってもきれい

それからダンスのお稽古もかかせない
だれよりも素敵におどってみせるわ

わたしを見つけてくれてありがとう
夢みたいな日々!

にせものでもちんちくりんでも
あなたに近づけてよかった
上手にしゃべれたかしら
こっそり練習していたの

あなたの一部になりたかった

むかしむかし人魚のお姫さまが
人に恋をしたんですって
人魚に恋をした魚のわたしは
きっともうお姫さまね!