牛乳で遊ぶ

 たとえば駅構内の乗客を集計したら、八割八分が人で、一割がボーカロイド・という時代。残り二分は鳩。
 
「はあ、そうですか」
 それ以外に何が言えただろう。
 せんせいは少し呆れたようにため息をついて、眼鏡の奥で細い目をつむる。
 私はひそかに、このせんせいの長い睫毛がすきだった。清潔さと色気は同居するんだなあ、としみじみ思う。そもそも、相反するものではないのかもしれない。
「ちゃんと聞いていますか?」
 学校の先生みたいな言い方で、せんせいが言う。実際に教員免許も持っているらしく、私はせんせいほど先生らしい人を他に知らない。たまに、こうやって診察室で向き合っていても、理科室にいる気分になってしまうことがある。
「……聞いていませんでした」
 睫毛に欲情していました、とは言えないので、私はしおらしく答えた。それらしくうつむいてみせる。だけどせんせいに演技は通じない。いつもそうだ。むしろ胡散臭そうに眉をしかめられただけだった。眉間に皺がきゅっと寄る。ぞくぞくする。
「よく考えて決めてください」 
 きっぱりと簡潔にそれだけ言って、ではお大事に・次の人――そうやっていつものように、せんせいは私を打ち切った。
「ありがとうございました」
 一礼して診察室から出る。小ぢんまりした診療所なので、すぐ隣が待合室になっている。
 年季の入った黒い革張りのソファが、四つほど、ちょんちょんちょんと並んでいる。それらを占拠するお年寄りの集団。薄く埃をかぶったブラインド、その脇に置いてある観葉植物。ぼろぼろに色あせた漫画ばかり詰まった本棚。当たり前に漂う消毒薬のにおい。
 変わらない居心地の良さに、私は一人うなずいた。ここは子供の頃からのかかりつけで、昔の記憶と照らし合わせても、少しもずれは生じない。
 
 
「{{ namae }}さん」
「はい」
 虹色とうがらしを三巻まで読んだところで名前を呼ばれた。この病院はあだち充がすきなようで、タッチ・陽当たり良好・みゆき、とそれなりに置いてある。でも、どれも数巻抜けていて、そしてここ以外で読まない私は、最終回までたどり着いたことがない。
 小さなプラスチックの窓越しに、看護婦さんのおでこを覗き込む。受付嬢と目があった試は一度もない。
「二週間分のお薬、出しておきますね。朝と夕食後にお願いします」
「わかりました」
「……カプセルがだめなのよね」
「錠剤でお願いします」
 私はこっくりと力強くうなずいた。はいはい、と軽く返事をしながら、看護婦さんは保険証と病院のカード、そして領収書を受付口からにゅっと出す。
「今日は人が多いから」
 声に笑いを含んだお大事に、だった。私は受診後に居残って本を読みふける子だった。幼稚園児の私も、小学生の私も、中学生の私も、高校生の私も、大学生の私も。そしてともすれば、今も。
 私はちっとも成長しない。
 
 
 それから病院の隣にある薬局で薬をもらい、途中でスーパーによってバナナと牛乳を買い、道端で会った猫とたっぷりたわむれてから、ようやっと帰宅した。 
「KAITOさん私病気らしい」
 カチッと音がして、ヴヴヴ、と低い起動音が鳴り響く。スリープモードの解除キーは私の音声になっているのだ。
 靴を揃えながら脱ぐ。袋から牛乳だけ取り出して、バナナはビニール袋ごと冷蔵庫にしまった。私が住んでいるアパートは狭いアパートにありがちな間取りで、玄関のすぐ隣がキッチンになっている。
 かばんを机に上に放る。風邪薬と、風邪の診断書と、風邪ではない診断書の入ったかばん。
「それはいかほどのバグですか」
 起動したKAITOさんが言う。今日のKAITOさんは冷蔵庫の横に座り込んでいる。(だから冷蔵庫の扉を開けた時少しだけ足をぶつけてしまった)
 日中はスリープモードにしてあるけれど、場所は指定していないので、日によってばらばらで面白い。トイレの前だとか――ちょっとやめてほしい、玄関の前だとか――玄関開けたらすぐさまKAITO。
 牛乳の口を開ける。ぺこんとぱこんの間の音。コップを取り出そうとしたが、こういうのは気分が大切だ。
 ぐい、と牛乳をあおる。ぬるくて甘い。
「それはいかほどのバグですか」 
 一音一句同じ響きでKAITOさんが繰り返す。私は少し考えて、言った。
「……ブラクラみたいなものかな」
「それはバグじゃありません。ただの阿呆です」
 ですよねぇ。
 ぱこん、ぺこん。ぱこん。
 たとえば鳴り続けるアラート。たとえば断続して増えるウィンドウ。そういうものによくひっかかった。消して、消して、消しても消しても、無限に広がり、やがてモニターを埋め尽くす。
「焦るんだよね、あれ。最終的に電源切っちゃったりとかして」
「それは適切な処置ではありません」
「ただの阿呆です?」
「ただの阿呆です」 
 頷きもせず、KAITOさんは言った。牛乳をしまって――もう一度KAITOさんの足に扉をぶつけて――ベッドに向かう。倒れてしまおう、と思った。私はうううんと一度伸びをする。両肩から鈍い音がした。
 ぼすん。身体がふとんに沈む。日当たりがいいせいか、私のふとんはいつも日向くさい。 
「KAITOさんちょっと」
 寝返りを打ちながら小さくつぶやいても、KAITOさんはのそりと立ち上がる。
 いつの間にか暗くなっていた。気がついたのは窓から入る夕焼けに、青いマフラーがきらきらと光っていたからだ。
 まぶしい。
「うたえ」
「はい」
 枕に顔をうずめる。――私が寝そべる足元で、機械が直立している。口を開き、あらかじめ入れておいた音声データを、ランダムで再生している。
 見えなくても、そういう事実があった。 
(焦らなくなったら)
 口の中で呟いた。たとえば鳴り続けるアラート。たとえば断続して増えるウィンドウ。
 消して、消して、消しても消しても、無限に広がり、やがてモニターを埋め尽くす。
(どうなるのかな)
 たとえばこのまま私が二度と起き上がらなくても、KAITOさんはうたいつづける。ずっとずうっと。なんておそろしいことかしら。
 ひとまず起きたら、バナナを食べよう。そう決めてしまえば、あとはもう簡単だ。
 機械の子守唄で眠るだけ。
 おやすみなさい、さようなら。