彼女は知恵の実を食べない

 たとえば駅構内の乗客を集計したら、八割八分が人で、一割がボーカロイド・という時代。残り二分は鳩。
 
 家に帰るとリンが全裸だった。
 うわあ。
「おかえりなさい、マスター」
「ただいま、リン」
 全然ちっとも寒くなさそうだなあ、と思いながら靴をぬいで、上着をかけて、顔を洗った。
 たまった洗濯物をぼそっと入れて、洗濯機をまわす。その間ずっと僕の後ろについてくるリンは、なんだか嬉しそうだ。
 たぶん、そう見えるだけ。
「ボーカロイドのおへそは、何のためについているんだろうね?」
「オヘソ?」
 ベッドに腰掛けて、部屋着に着替えてしまうと、お腹も空いてなかったので、もうリンと向き合うしかなかった。それで仕方なく僕がそう言うと、両手でお腹をおさえて――指先でおへそを取り囲んで――見下ろしながら、不思議そうにする。
 僕はそんなリンを見下ろす。ぺったり床に座り込むリンは、やっぱり、ちっとも寒そうじゃない。服、どこに脱いだんだろうなあ。
「おへそはね、傷痕なんだ。母親と子供が繋がってた証」
「ふうん?」
 ぎょろりと緑の目がこっちを向いた。む。これはまずい。でも僕は動かなかった。
 思ったとおり、リンがにじり寄って僕の服をめくる。
「繋がってたの?」
「ずっと昔ね」
「今は?」
 難しいことを聞く。
 たとえば家族愛というものは僕の中に存在するけれど。
 部屋にはごうんごうん、と洗濯機が回る音が響いている。小さな部屋を見回して、ようく考えてから、僕はリンに言った。
「切り離された後は、みんな一人だよ」
 ふうん、ともう一度、わかったような返事をして、めくる手を放した。やれやれ。
「わたしは?」
 今日のリンはよくしゃべる。
「誰かと繋がってた?」
 ボーカロイドのおへそは何のためにあるんだろう。母体もなければ、母胎の中にいたためしなんかあるわけないのに。
 つるつるした肌の上で、そのくぼみはなんだか、すごく――。
「マスター」
 うん。
「これから繋がるんだよ」
 だから服を着て、レッスンしようね。
 きっと、彼女はなんにでもなることが出来るし、なんにでも繋がることが出来る。
 歌だけが彼女の接続端子だ。
 そしてそれは、かなしいことなんかじゃない。
 はあい、とわかったような返事をして、リンが笑う。
 
「でも、」
 でも?
「せんたっきにいれちゃった」
 ……。
 洗濯機をぱかっと開けて、見た。確かにセーラー服はそこにあった。バスタオルと、僕の服とか下着とかの間で、ゆらゆら揺れている。洗剤のにおい、白い泡。
 僕の服を着せてもいいけれど、それは、
「絵的にどうなのかなあ…」
「?」
 全裸よりはるかにマシなことに気付いたのはそれから少し経ってからだった。