星を求める蛾の願い

「君を殺すのも飽きたよ」


 ――遠く遠くの残響は、ふと起きたらどこかに消えてしまって、最初からなかったみたいに忘れてしまった。きっと夢でも見ていたんだろう。
 霞んでいた色のない視界が、ゆっくりと鮮やかになっていく。何度か瞬きをすると、ようやく焦点が定まった。
 まず、お天道様と目が合う。どうやら仰向けに寝転んでいるらしい。陽は高く高く輝いている。ちょうど昼餉の時間だろうか。晴れた空は、どこか余所行きのような顔をしている。この青は故郷の青ではない、そんな気がした。
 瞳が機能すると、今度は耳の番だった。とてもうるさい。どおどおと絶え間なく音が聞こえる。少しだけ首を傾けて確かめると、すぐそばに滝があって、先程から顔を叩き続ける刺激は水飛沫だったとわかる。頭からつま先まで、満遍なく濡れ鼠だった。
 体を半分だけ起こしてみれば、みしみし、ぱきぱき、全身から嫌な音がする。右手首が変な方向に曲がっていたので、左手で捻って戻した。これでよし。恐る恐る立ち上がると、意外と体幹はしっかりしている。それから、大瀑布を見上げた。
 たぶん、あそこから落ちたんだろう。頭を打ったからか、前後の記憶は曖昧だった。
 ただひとつ、いやふたつだけ知っている。
 ひとつ、輪廻転生。
 最初は虫。蝶に蛍に鬼兜虫。
 次に鳥。狐、狗、狸、猫、猪、鼬。
 人に生まれてみたかった。
 長い長い旅路の果て、ようやく。
 傷だらけの手を陽に透かす。これが、これこそが人の肉。
 ふたつ、あのお方のこと。
 あのお方の眩い輝きをいつか見た。
 ずっとずっとずっと昔。
 それから焦がれている。今も。だから。行かなくちゃ。今生も。前生がそうであったように。そして後生もそうであるように。
 行く先は風が教えてくれる。
 鯉でもないのに滝を登った。這い上がり、川沿いを歩く。木々生い茂る道無き道を進む。進む。
 森の緑は色濃く、豊かだったが、よそよそしい。草木や茸でさえ見覚えがない。やはり故郷から遠く離れた地に来たんだろう。潮の香りもとんとしない。吸い込んだ異国の空気は、どこか甘かった。
 どうやって海を渡ったか、覚えてはいない。この体をいつ得たのか、記憶にはない。ただ、此処に生まれ落ちたのなら、あのお方も此処にいる。ただそれだけ。それだけわかっている、知っている。
 池を泳ぎ、月が昇り、谷を跨ぎ、陽は沈み、苔むした鉄の塊を越え。
 大きな大きな木が見えた時、歩みを止めた。
 あのお方もこの景色を見ただろうか。
 巨木が、街を抱えている。根が、幹が、枝が、葉が、人々の営みを抱くように佇んでいた。
 きっとあちらにいらっしゃる。
 そうして一歩進んだ脚が捥げた。人の身は脆いとは聞いていたが、これほどとは。
 そのまま転んで、這いつくばっていると、
「……あ~らら」
 頭の上から声が振る。
 このお声、この空気。
 貴方様。
 本当はすぐにでも見たかったけれど、今度は首が捥げてしまうかと思って、ゆっくり、ゆっくり、顔を上げる。
 ああ!
 今生でも、お逢い出来た。
 爆発する気持ちを、想いを、瞬間的に声にしようとして――出来なかった。はくはくと、口だけが動く。何度やっても、音にさえならなかった。


 ぼとり。


 首も落ち、ついに朽ち始める姿を見て、彼は眉をしかめた。どうやら今度は自分が殺さなくても済んだらしい。
 そも、ここ数百年は律儀に看取ってやっていたのだから怖気が走る。
 時に声をかけ、最期を見届け、埋めてやり、手を合わせていた。そうしてやるのが良いのだと思っていた。何度も姿を変えては必ず逢いに来る何者かに、してやれることはこれくらいだと。何故、己の元に来るのかは知らない。けれどきっと慕ってくれている。故に、安らかであれ、そう祈って。
 前生では違った。
 ひたすら不快を煽られ、耐え難いほど憎らしく、そのうちに自ら手を下すようになった。何度も訪ねて来ては傍に付き従って、何度も何度も何度も何度も何度も必ず目の前で死んでいく。不快以外の何がある?
 首を刎ね、脳を潰し、幾度となく殺してやった。
 しかし殺す前からその器は既に死んでいる。
 全く面白くない。
 輪廻転生、なんて思ったのは最初だけ。
 生まれ変わりでもなんでもない。
 ただ、死骸から死骸へと移りゆく、矮小な存在。
 このあやかしを、死人憑しびとつきという。
 そして目の前のこれはとびきり力が弱く、虫や鳥や獣にしか取り憑けなかった――はずだった。
 人の死体に入っているのを見るのは、初めてのこと。
 脆弱なくせして。ようやっと人の肉を操って、引きずって、こんな所まで来たのか。
 何故?
 理由は知らない。それが在るのかすら定かではない。興味もない。知りたくもない。
 ただ事実として、彼が世界樹と接続した“前”と“後”の両方で、このちっぽけな妖は変わらなかった。何度も訪ねて来ては傍に付き従って。必ず目の前で死んでいく。
 未練と執着を煮詰めた挙げ句、鍋底にこびり付いた焦げのようなものが。
 こんな所まで。こんな所まで。こんな所まで。
 舌打ちも、ため息も、どちらも落としてなどやらなかった。
「ご遺体を運んで来てくれた、とも言えるわね」
 ――粛々と全てを終わらせた後、草神が呟く。
 死体は、先日の大雨で行方不明になり、捜索を願われていた人物のそれだった。
 つつがなく回収され、葬儀も済んだという。
「はっ、実に甘ったるい解釈だね」
「いいえ、ただの事実よ。捜索隊が想定していたよりもずっと遠くに流されていたから、発見は難しかったでしょう」
 雨林の環境は腐敗の速度を早めただろう。だから無理やりに動かせば、それはもう、あの有り様。酷い有り様。目も当てられない。
 それなのに。
 ありがとう、と。
 何度も、何度も、頭を下げられた。
 ――見つけてくださった方に、どうしても直接御礼申し上げたい。
 遺族の嘆願を、あろうことかこの草神は聞き入れた。こちらの代理を立てろという案は却下され、彼は握られた手と、零された涙を、どうにかやり過ごす羽目になった。
 まだその感触が残っているかのように、ひらり、手を泳がせる。目を閉じて、頭を振った。
「でも、困ったわね。真の功労者を放っておくなんてこと、私には出来ないわ」
 考え込む様子が実にわざとらしかったので、彼は嫌そうに眉をしかめた。どうせまた何か、ろくでもないことを思い付いたんだろう。
「まさか、褒美でもくれてやろうって言うのかい? 海を越え山を越え遥々とやってきた、得体の知れない人ならざる者に?
 はははっ、お優しい神様だこと、流石はクラクサナリデビ! 慈悲深いったらありゃしない」
 皮肉たっぷりに笑ってやると、実に要領を得ない言葉が返ってきた。
「ふふっ。答えは“はい”、そして“いいえ”よ」


「材料は私が用意しましょう。貴方には――――を、お願いするわ」
「…………はぁ?」


 異国の神は、全てを教えてくださった。
 すなわち罪。
 誰かの屍を借り、自分のために、自分のためだけに動かす怪異。それが正体だと。
 何度も何度も何度も何度も、何百年もの間。
 輪廻転生はどこにもあらず、我欲がそうさせていたのだと。
 知らなかった。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、それでも、それでも、それでも。
 逢いたかった。
 ああ、体が欲しい。お傍にいるための体が欲しい。けれどそれは、誰かの死と体を望むこと。
 最早この世に在ってはならぬ。
 しかし。
 異国の神は、“どちらも”赦してはくださらない。
 すなわち罰。
 その罰を受ける日を、今はただ、待っている。
 若草色の双眸を細めながら、彼女はこうおっしゃられた。
「まずは、私の民を連れて来てくれてありがとう。ご遺族も喜んでいたわ。……ただ、ごめんなさい、スメールの神として、これ以上貴方の“在り方”を黙認することは出来ないの。
 どれだけ外で雨が降ろうとも、音だけしか届かない。けれどたった一滴でも、その雨漏りを知ってしまえば、知る前には戻れないように。降り止まない雨はなく、永遠に続く晴れもない。ならば、屋根に空いてしまった隙間を塞ぐ他ないのよ。本当にごめんなさいね」
 ……例えはよく、わからなかったが。
 存在自体が死者への冒涜だ、という理解と自責を、異国の神は慰めてくださった。そういう存在としてこの世に生まれ落ちてきたのだから、と。
 それでも、彼女の管轄下であるこの国において、看過することは出来ない。
 そうして、この世から消え失せることも、新たに屍を得ることも、どちらも禁じられて此処にいる。
 辺りは薄暗く、空気は少し湿っていた。石造りのところどころに木の根が露出している。恐らくは地下。空間の中央には、面妖な筒状の小部屋が天井まで伸びている。昇降機の類だそうだ。
 罰は、そこから降りてくるらしい。
 外でどれだけ日の明け暮れがあっただろう。
 直々にご用意して頂いた特注の檻は、淡く若葉色に光りながら、体を失った憐れな残り滓をいついつまでも霧散させてくれない。
 何も知らない者が見れば、空中に浮かぶ虫籠と思うだろう。
 こんなにもちっぽけで、愚かしく、みすぼらしい。
 それでも星を見てしまった。
 焦がれしてまった。
 ずっとずっとずっと昔。
 いつかの貴方様に、眩い輝きを。
 忘れることは出来ません。
 その両の目から、ひとすじの星が流れゆく。
 もう一度見たいとは思いません。
 けれど。
 けれども――。
 あれよりうつくしい光を知りません。
 あれよりうつくしい光は、ありません。


 扉が開いた。


「そうしていると、本当に虫けらのようだね」
 声をかければ、淡く明滅する“何か”が暴れだした。
 音もないのにここまで鬱陶しく在れるなんて、と彼はいよいよため息をつく。
 爆ぜるような光は燃え尽きる前の線香花火のようで、いっそこのまま落としてやった方が、“世のため人のため”ではないか? 
『今回はご遺体を運んでくれた形になったけれど……死者の体を操るだなんて、もちろん赦されるべきことではないわ』
 そう、死者への冒涜に繋がるならば、滅してしまえば済む話。
 しかし彼の主張は、にっこりと却下された。
『だからこの処置は、二度と誰かに取り憑くことが出来ないようにするためよ』
 だったら、虫籠の中でずっと飼い殺してやればいい。
 しかし彼の主張は、にっこりと却下された。
『あら、貴方が言ったんじゃない。“まさか褒美でもくれてやるのかい?”って。ふふっ』
 ――慈悲深くあらせられる草神様の言葉を一言一句思い返しながら、今度こそ、彼は舌打ちをしてやった。
『これは枷であり、同時に褒賞でもあるの』
 三歩だけ近付き、ついと指を動かせば、たちまち虫籠が砕け散る。
 中に入っていたそれは、やはり矮小なそれは、途端に崩れていった。雲が流され形を変え、やがて消えるように。
 依り代を失えばその程度。今の今まで、草神の力で生き長らえていたに過ぎない。
 薄れていく。何百年も付き纏ってきた気配が。こちらの煩わしさを少しも考慮したこともない、馬鹿の一つ覚えの体現が。
「苦しいかい? ……いいや、苦しいなんて上等な神経を持ち合わせていたら、こんな所にまで来ていなかったろうね」
 そうしてここで消えたって、またいつかが来るに決まってる。
 彼は、ずっと手に持っていた――草神が材料を用意し、彼に拵えさせた――物を、ぞんざいに投げた。
 それが地に落ちる前に、一太刀の風を浴びせ、わざわざ殺してやった。
“死体”を、作ってやった。
 ――霧散しようとしていた気配が、ゆっくりと、新たな依り代に移る。
「紙子着て川へ嵌まる、飛んで火に入る夏の虫……ハハッ。これでもう、君は本分を果たすことはない」
 ひょいとつまみ上げて笑い飛ばす。
 本当に滑稽だった。
 何百年も渡り歩き、ようやく人の肉さえ操れる力を蓄えたその終着が。
 こんなにもちっぽけで、粗末な、首の無い人形だなんて。
「それくらいは自分で縫い合わせるんだね。君が体を動かせるかなんて知らないさ。知りたくもない。どうせ時間はたっぷりあるんだ、せいぜい足掻いてみるがいい」
 両断した首と胴体を手のひらに乗せて見下ろすと、わずかに震えた気配がして。
「……鬱陶しいったらありゃしない」
 そう言って、彼は少しだけ口元を歪めた。