ちゅうしようぜ!

「忠、キスしたい」
 がどん!
 勢いをつけて突っ伏すと、そんな音がした。痛い。
 衝撃に湯のみから少しこぼれたお茶を、{{ namae }}さんがあーあと言いながら台拭きでぬぐう。
「{{ namae }}さん! べ、勉強中っすよ!!」
 教科書とノートと筆記用具一式を持ってきて、得意そうに笑いながら、勉強するぞー! と無理やり乗り込んできたのは彼女の方だ。
「だってなんか忠みてたらしたくなったんだもん」
「だもんじゃないっす、だもんじゃ」
 机をべしべしと叩きながら{{ namae }}さんを睨む。もっとも、恥ずかしさ半分、嬉しさ半分で赤くなった顔では迫力の欠片もないだろうけど。
「だいたい、一問も進んでないじゃないっすか」
「ぎくり」
「赤点とっちゃうすよ、赤点。それとぎくりは古いっす」
 二人の手元には数学の問題集。僕も得意とは言えなかったけど、{{ namae }}さんほど目の敵にはしていない。{{ namae }}さんは数学が苦手だった。いや嫌悪、むしろ憎悪している。
 赤点だけはとりたくなかった。運動部にいたっては、補習で部活に出られなくなってしまう。練習にはもちろん出たいし、マネージャーでもある彼女が、部活中姿を見せなくなると思うと、想像するだけでさみしかった。
(そりゃ、その、好きっすからね)
 だからと言って、勉強中の彼女を甘やかすわけにはいかない。
「ダメなものはダメっす!」
「じゃあこの湧き上がる情熱をどうすれば!?」
「……えーいこの駄々っ子! ダメなもんはダメっす!!」
「うわーん忠のケチ! 甲斐性無し! 家庭科だけ成績十めー!!」
「家庭科だけで悪かったっすね!!」
 甲斐性なし……凹むっす……。
 すっかりすねて、今度は{{ namae }}さんが突っ伏した。おでこは打たなかった。茶菓子のせんべいをそのままの状態で貪る{{ namae }}さん。行儀悪いっすよという声にも返答なし。バリボリガリガリ齧る音。ついで、お茶をずずぅとすする音。こぼれるっすよという声にも返答なし。 そして音もしなくなった。
 甘やかすわけにはいかない、のだが。
「………一回だけっすよ」
 耐えかねて、ぽつりとつぶやく。鼻をかいてちらりと彼女を見ると、もう顔は真っ直ぐにこっちを見ていて、きらきらと――とくに目が――輝いていた。
「……そしたらちゃんと勉強してくれるっすか?」
「する! 超する! 真面目に生きる! 数学大好き! だからはいカモン! やっはーい!!」
(すっかり壊れてるっす……)
 基本的に無条件でこのかわいい彼女に対して甘いのだから、僕が折れるのは、まぁ、当然の結果だったりする。
「わー忠真っ赤ー」
「うううううるさいっすよ!」
「はいはい。勉強再開ー」
 数学覚悟ー!
 満足したのか、妙にやる気だ。むしろ殺る気だ。力を込めすぎてノートが悲鳴をあげている。破れなきゃいいのだけれど。セロハンテープあったっすかねぇと無駄に心配しながら、なんだか頭が痛くなってきて。
「………はぁ」
 がりがりがり。どうやら順調らしい。今だ筆跡は強いが。ときどき子津せんせー、なんて手を上げたりしながら、一つ一つ解いていく。ようは大切なのはやる気だ。殺る気でなく。
「えっとっすね、ってただ単に計算間違えっすよ。7じゃなくて13っす」
「えー」
「……えーじゃなくて、ほら、こことかプラスとマイナスが逆になってるっすから」
「あ、ほんとだ」
 ありがとうと言いながら彼女はまた問題とにらめっこを始める。頑張っている姿は単純にかわいい。
 がりがりがりがりがりがり。なんでここがこうなるの、とか、ああなるほどね、とか。
 声とともに動く、
 唇を、
 見てしまう自分に気づく。
「……う……」
 既に頭の中は言い訳の体勢になっている。
 いきなり言ってきた{{ namae }}さんが悪いわけで、僕は悪くなくて、とか。 ちらりと自分の問題集を見ると、そういえばさっきから全く進んでいない。 これもやっぱり{{ namae }}さんが悪いわけで、とか。
 深く、深く、今日何度目かわからないため息をつく。
 結局は{{ namae }}さんを好きな僕が悪いわけで、とか。
「{{ namae }}、さん……」
「なにかなー?」
 呼びかけに、にやり、と{{ namae }}さんが笑った気がした。 もしかして、くそうしてやられたっす! 思いながらも、からかうように見つめてくる視線がちくちくと痛いから。
「キ……、」
 観念して、僕は言った。
「キス、したい、っす…」
 満面の笑みが机の向こう側に浮んだ。そうこなくっちゃ! と嬉しそうに手を広げるものだから、どうにでもなれとシャーペンを投げた。