そこまで歩いていくよ
それから、屋台はしんと静かになった。くつくつおでんが煮込まれる音と、店主のため息が聞こえる。隣で、空っぽになったグラスを握りしめたまんま、チョロ松くんが眠ってる。眉間に寄った皺、固く閉じられた瞼、への字に曲がるくちびる、ほっぺたがびしょびしょに濡れた、寝顔。そのくせ、すうすう、なんて、寝息だけ穏やかで。
笑っちゃえばいいのか、いっしょに泣いちゃえばいいか、わかんないね。
「やめといてやれよ」
伸ばした手が、止まる。上着をかけてあげようとか、コップを手から離してあげようとか、顔を拭いてあげようだとか、きっとそんなことがやりたかった手は、店主の声と背中に止められた。
「そいつのためになりゃしねえ」
あげよう、あげよう、してあげよう、ほんとは全部、したいだけ。
わたしが、わたしのために、したいだけ。
耳に、声がよみがえる。
言いたいことだけまくし立てて、ごとんとしたたか打ち付けながら突っ伏して、そのまま寝入ってしまったチョロ松くん。
『じゃあ何か、君は、』
それで、"せいせい"してくれたなら、よかったのに。
もっといい顔で、やすらかに、眠ってくれたならよかったのに。
自分の言葉に苦しむようなきみだから。
『僕の、理想の僕じゃない僕を、君は、すきって言うわけ』
そうだよ。
『………言ってくれるよね』
きみのためじゃなくて、わたしのために。
「―――ねえ、」
だから、今度こそ、手を伸ばす。
普通に、
普通は、
普通なら。
人の当たり前ばかり目に付いた。
気が付いたら横道に逸れていた。
どうして、
なんで、
でも、
でも、
だって。
ほんとの僕はこんなんじゃない。
まだ大丈夫だからと目を背けて。
なのに、
君は。
こんな僕を。
嫌だ、
駄目だ、
ほんとの僕はもっともっと、
きっと、君にもやさしくて。
人として"ちゃんと"してる。
だから、
まだ、
駄目なんだ。
今じゃないんだ。
理想の僕を、見せたいんだ。
今のままでいいなんて、
僕は、
君を、
―――言い訳にしたくない。
辛気臭い客しかいねえ。おでんが泣いてるちくしょうめ。いっそ席を立って目の前から消えてやるくらいしてやった方が、大馬鹿野郎の薬になるってもんだ。
「ねえ、」
なのにだ、止せばいいのに、折角止めてやったのに。そいつの手は酔っ払いの肩をゆする。ぎこちなく空いてた皿一枚分くらいの隙間を、ぐっと埋めて、すぐ隣に身を寄せて。あーあ、他所でやれよな。
「もしもし、チョロ松くんの理想のチョロ松くん。きこえますか」
なんだそりゃ。
オイラがそう思ったくらいだから、そりゃあ、当の本人はもっとだろうよ。
はっと目を醒ました思ったら、
「わたし、あなたに会えるまで、待っていられません」
みるみるうちに死んだ顔になっていく。
ケケ。ざまあみろ、大馬鹿野郎。
「だからごめんなさい、」
「チョロ松くんといっしょに、会いにゆきます」
………なんだそりゃ。
オイラは呆れたけれど、奴さんは、勢いよく飛び起きた。
ウチの暖簾と同じくらい、その顔は赤く酒に染まったまんまだったが、それでも、しっかり、起きやがった。
背筋なんてぴんとして。
まっすぐに、向き合って。
「待っててくれる? きみの理想のチョロ松くん」
「………そりゃあ、僕の理想の僕ならね」
―――あーあ、他所でやれよなあ。
いよいよ背中を向けた。ぼちぼち閉店の準備でも始めちまおう。買い出しは明日行くとして、何か旬の素材でも入れてみるか。趣向を凝らすことも時として大事だ。もちろん初心に戻ることも。あの手この手、それでもまだまだ理想にゃほど遠い。追い求めてなんぼってやつだ。孤独な道ってもんよ。
だけど、差し出された手を跳ね除けることは、大馬鹿野郎のすることだ。
だから今日は、オイラは何も見なかったし、聞いちゃいない。"ただの馬鹿"に免じてな。
ま、せいぜい、オイラのおでんが旨すぎて、涙が止まらなかったことにしといてやるよ。
ツケにしとくぜ、ばーろーめ!
「………僕の、理想の僕は、」
「うん」
「まずデートにおでん屋は選ばない」
「うん」
「もっとこう、格好よさ気な、お洒落なお店を予約しておくし」
「うん」
「お酒ももっとスマートに飲めるよ」
「うん」
「酔った勢いで暴言吐いたりしないし」
「うん」
「………君にもっとやさしい」
「うん」
「それから、………それから、」
「それから?」
「………笑えばいいだろ、こんなこと」
「うん」
「笑ってるじゃん」
「………うん」
「君ってほんと、……ほんと、馬鹿」
「うん、知ってる」
「長い道のりになりそうだねぇ、チョロ松くん」
「ねえ、君がそれ言う?」
今したいこと。
手をつないで、肩をならべて、いっしょに歩いて、帰ること。