ユーキャンクライ・イッツオーケー!

 十四松は走っていた。
 歩くより走っている方が多いんじゃないか、とまで言われたことがある十四松だ。その脚は強く強くコンクリートを次々と踏みしめ、景色をどんどん後ろへと置き去りにしていく。
 途中、曲がり角に近所のおばあちゃんが一人、自販機の前に顔見知りのおじさんが一人、塀の上に兄のともだちが二匹いたので、その度に急ブレーキで立ち止まり、「こんにちはーーっ!!」と挨拶をした。風圧でおばあちゃんのスカーフが揺れ、おじさんのカツラが少しずれ、兄の友達は全身の毛を逆立てる。スカーフは可愛いリボン結びにして、カツラは絶妙な角度に直し、逆立った毛は顎を撫でて戻してもらった。ぐるるぐるる、嬉しそうな音を聞いて嬉しくなった十四松は、そうだ、そうだった、走ってたんだ、そう思い出して、「またね!!」と颯爽と駆け出していく。
 ともだちが待っているから。
 待ち合わせはしていなかった。でも今日もいる、昨日もいた、明日もいる、そういう確信が、十四松にはあった。だって、ともだちだから。理由はそれだけで十分だった。
「おっせえぞー!!」
 土手から見下ろした川べりに、手を振ってともだちが笑ってる。だからししし、と笑い返し、十四松は、飛んだ。
「ドゥーーーーーン!!!」
「わーーーーーっ??!!」
 凄まじい脚力をもってして決めた跳躍は、一瞬で十四松を土手から川べりへとワープさせた。ともだちが驚いてひっくり返り、そのわずか数センチ前で十四松は華麗に着地してみせた。十点満点。
「飛ぶなって前にも言っただろ!!」
「えーーーそうですかあい!?」
「言ったあ!!」
 確かにそんな気もする。ごめんねと手を差し出せば、「しっかたないなあ、ジュッシは!」なんて笑ってくれた。ジュッシとは、ともだちが付けてくれたニックネームだ。トッティみたい! 十四松はそう思って、なかなか気に入っている。
「よっしゃ、今日も野球やろうぜー松野ー!」
「おーう中島ー!!」
 もちろんともだちは中島なんかじゃないし、たった二人で出来ることは限られていたけれど。いつものようにボールと、グローブ、そしてバットで、二人は楽しく野球をするのだった。
「オーライ!」
 ジュッシこと十四松は、このともだちの笑った顔しか見たことがない。 出会ったのもこの川べりで、きっかけも野球だった。素振りをしていたら、声をかけられたのだ。にやにや笑いながら、「なあ、混ぜろよ」なんて。
 それから二人はともだちだった。もう一ヶ月は経つだろうか。ほぼ毎日のように、投げて、打って、拾って、また投げて。ともだちが「明日来れないかも」とか、テレビが「明日は大雨です」とか、そんなことを言い出さない限り、ほんとうに、毎日。月火水木金土日。
「ジュッシの肩つえぇ~!!」
 ジュッシこと十四松は、このともだちの笑った顔しか見たことがない。 十四松は知っていた。ともだちがいつも着ているジャージが、近くの学校のものだって。
「ガッコ行かないのーーー!!?」
 ボールを投げる。
 スパン!
 ナイスキャッチ。
「うーーーーん!!!」
 ボールが投げられる。
 スパン!
 ナイスピッチ。
「まあじでーーーーー!!?」
 ボールを投げる。
 スパン!
 ナイスキャッチ。
「まじまじーーーーー!!!」
 交互に会話とボールを投げるやりとりは、お馴染みのものになっていた。昨日何食べたとか、時にはしりとりとか、なんでもない話ばかり。
 行かないの、行かないよ、そっか、そうだよ。十四松はそれ以上聞かなかったし、ともだちはそれ以上答えなかった。でもこの話だけは、必ずしなくちゃいけないような、そんな気がして。だから、十四松は今日も聞いた。ともだちも、今日も答えた。
 そして、それだけだった。
「……ジュッシ」
「あいあーーい」
 キャッチボールの距離感のため、声は自然と大きくなる。そうでなくても十四松の声は大きかったが、今、ともだちの声はとても小さいものだった。ぽつりと呟く音量だった。それでも十四松の聴力は、ともだちの声をきちんと拾い上げる。
 解散のタイミングは大抵、お腹が空いたり、疲れたり、暗くなったりのどれか。
 今日は、そのどれでもないことが、十四松にはわかった。
「おなかいたい」
 ともだちが、泣きそうな顔をしていた。
 ジュッシこと十四松は、このともだちの笑った顔しか見たことがなかったのに。
「ドゥーーーーーン!!!」
 十四松は、飛んだ。凄まじい脚力をもってして決めた跳躍は、一瞬で十四松をともだちの真ん前までワープさせた。 飛ぶなとは、言われなかった。
「ヘイタクシー!!」
 しゃがんで背中を見せながらそう言うと、
「それ、こっちの台詞じゃね」
 ともだちはそう言って、笑った。 初めてのおんぶは、少しだけ血のにおいがした。
その次の日の、次の日の、次の日の、次の日の、次の日の、さらに次の日まで、ともだちは川べりに来なかった。十四松にはそれがわかっていた。わかっていたけれど、毎日川べりに行った。それで、今日は来るぞ、という日も、もちろん行った。久しぶりに姿を見せたともだちは、いつものジャージ姿ではなかった。
「おーーーっ!!」
「どおーーだ!!」
「やっべーー!!」
「やべーだろ!!」
「やっべーね!!」
 ともだちがくるりと一回転すると、スカートもくるりと一回転する。 十四松が両手で丸を作って、そこからともだちを覗く。
「パンツーマルミエ!!」
「それな!!」
 ともだちがけたけた笑う。十四松も笑った。初めてともだちが見せてくれた制服は、ぴかぴかだった。ほんとうに初めて着たみたいに、ぴかぴかだった。
「ガッコ行くのーーーー!!?」
 ボールを投げる。
 スパン!
 ナイスキャッチ。
「うーーーーーん!!!」
 ボールが投げられる。
 スパン!
 ナイスピッチ。
「まあじですかあーーーーい!!!」
 ボールを投げる。
 スパン!
 ナイスキャッチ。
「まじまーーーーじ!!!」
 キャッチボールの距離感のため、声は自然と大きくなる。セーラー服に、野球グローブ。十四松には、それが、とても格好よく見えた。でもともだちには、似合ってない気もした。
 だから。
「ねーーー!!」
「んーーー!?」
「ちょーーっと待っててーーー!!」
 返事も聞かずに、十四松は走り出す。
 道端にはやっぱり見知った顔がいて、いつもは立ち止まって挨拶をするところだけど、この時ばかりは手を振るだけにした。
 駆け込んだ先は、自分の家の、押入れ。
「おーおかえりー、ってどしたのそんな慌てて」「フッ……幸せは歩いて来ない、だから走って来たというわけだな……?」「いやそれ突っ込むのも面倒だから。あ、出したらちゃんと片付けろよ」
 中から出るわ出るわ、ハズレ馬券、ギター、サイリウム、猫じゃらし、硬球、碁盤などなど。
「……なに、大掃除にはまだ早すぎるでしょ」「うわー、てか押入れゴミだらけでやっばいねー」
 使ってない毛布、今は着てない服、その奥の奥に、お目当てのものはあった。
「うーわーなっつかしいー!」「記憶が蘇るな…」「嘘、まだあったんだ?」「何に使うの…」「えっそれどうするの十四松兄さん!?」
 十四松はしししっと笑った。
「中島に持ってく!!!」
 磯野野球しようぜ、中島って誰だ、カツオかよ、いやカツオじゃなくない、アニメ違くない?
 そんな声を置き去りにして、十四松はまた走る走る。
 ともだちの元へ。
「ジュッシーーー!!」
 土手から見下ろした川べりに、手を振ってともだちが笑ってる。飛ぼうとして、やめた。
 一目散に、ともだちが、土手を駆け上って来ていた。その速度は十四松のワープよりずっとずっと遅かったけれど、
「あーーきっっつ!!」
 十四松は、ともだちを待った。
 息を整えて顔を上げたともだちの目の前で、持ってきたものを広げる。
「ジュッシ、」
「これね、僕のお古!!」
 むかーし昔にはうちにも六つあったけど、ボロボロになったりご近所さんにあげたりして、奇跡的に残っていた一着だった。さっと後ろに回って、肩にかけるようにして着せた。それからまたさっと正面に回って、十四松は頷く。
 ぴかぴかのセーラー服の上の、真っ黒な学ラン。
「すっげーー似合うよ!!」
 にっこりと笑うと、
「…………ジュッシ」
 ともだちは、泣いた。
「喉仏なくても、」
「うん」
「ちんこなくても、」
「うん」
「一緒に、野球、してくれて、」
「うん!」
「……ありがとなあ」
 顔をぐしゃぐしゃにして、ともだちは、ようやく、泣いてくれた。
「どーーいたしましまして!!」
 だってね、君、ずーーっと泣きそうな顔、してたんだよ。



 それからともだちとは、隔週日曜日に野球をすることになっている。
「松野ー野球しようぜー!!」
「おおーう中島ー!!」
 日曜夕方はサザエさん。
 川べりには今日も、黄色い野球ユニフォームと、黒いお古の学ランが並んでる。