花を召しませ お得意さん

「あら、いらっしゃい。珍しいわね、こんな朝早くに」
 自然と親しげな声が出る。開店早々お見えになった、朝一番のお客さまは、常連客の松野さんだった。松野さんは客層としても珍しい男性の方なのに、頻繁に花をお求めになられるお得意さんだ。
 サングラスと黒のライダースという出で立ちも、もうすっかりこの花屋では見慣れたものとなっていた。
「フッ……morning、マダム。俺はこの日を……待ちわびていたぜ……!」
 馴染んでいるかは、別として。

 そう、最初こそ彼の言動――「リボンは……そうだな、冷静と情熱を秘めるような色でないと……」「綺麗な花には刺がある……だが俺には傷付けたくない人がいる……! 断ち切ってくれ、全てを……!」――には、面食らっていたけれど、決して悪いお客様ではない。
 なにより、花を受け取る時の顔が、誰よりも幸せそうだった。
「いつもご贔屓に、ありがとうございます。奥さまに、でしょう? 素敵な旦那さまだこと」
 だから、何度目かのご来店の際に、そう声をかけた時のことをよく覚えてる。
「奥さま」
 まるで初めて聞いた言葉のように、彼はきょとんと復唱した。それから、思い出したように自分の左手の薬指、そこに光る指輪をじいっと眺めて、
「ああ、そうだ。うちの大事な、奥さんへ」
 ――ふにゃり、と。花がほころぶように、笑うんだもの。
 
「今日は何をお求めで?」
「あっはい……ええと……、実は迷ってるんだ」
 先の言葉に言及せず、にっこりきっぱり営業スマイルで接客すると、松野さんはそっとサングラスを外して言う。ちょっと意地悪だったかしら。
 同時におや、と珍しく思った。もちろん失礼にならないよう、態度には出さなかったけれど。
 何せ松野さんは、いつも、薔薇の花を買ってゆく。彼の中で花といえばそれしかないのだろうかと、そんな風に思ってしまうほど。大抵、夕方や夜の閉店間際にやってきて(お仕事帰りだろう)、さっと一輪買ってゆく。そんな彼が、迷うなんて。
「マダム……聞いてくれ。今日は……今日は俺と{{ namae }}の……一年に一度のスペシャル・デーなんだ……」
 {{ namae }}は、もちろん奥様のお名前だ。
「……お誕生日? それとも結婚記念日かしら?」
「流石だぜマダム!! ちなみに後者だ!!」
「それはそれは、おめでとうございます」
 わかりやすすぎてクイズにもならないのだけれど、それは言わないでおこう。
 本当は昨日の夜のうちに来たかった、と松野さんがしょんぼり肩を落とした。仕事の関係で、どうにも閉店時間までに間に合わなかったとのこと。だから珍しく、朝一のご来店だったというわけだ。
「愛するハニーには、サプラァイズが必要だろう?」
 そう言って松野さんが嬉しそうに見せてきたのは――ビニール袋に入った、牛乳パックだった。牛乳パック?
 なんでも、切れかけているからと無理やり理由をつけて、家を飛び出してきたらしい。
「そして花束を持って帰宅する俺……フッ、完璧な作戦だ……」
 片手に花束、片手に牛乳パックの松野さんを想像して――
「……奥さまも、喜ばれますわね」
 ――なんとか噴き出さずに、済んだ。
 きっと奥さまは、{{ namae }}さんは、笑ってしまうに違いない。結婚記念日の朝、急に家を飛び出す旦那さま。どうしたのかと少し心配になりながら、朝ごはんの準備をしているに違いない。それで満面の笑顔で、花束と牛乳パックを手に、旦那さまがお帰りになるのだ。
 そんなの、可笑しくって、愛しくって、笑ってしまうに決まってる。
「だがどうすればいい、俺には選ぶことなんて出来ない……!」
 大きく頭を振って、言葉通り苦悩している様子で松野さんがうめく。この方はほんとうに奥さまがおすきなのね、と微笑ましく思いながら、
「ご相談くださいな、どちらの花でお悩みなの?」
 花屋として当然のことを尋ねると。
「全部だ」
「……全部?」
 そう、きっぱり頷かれてしまい、思わず聞き返していた。
「だってマダム、ほら見てくれ。どの花も、とても綺麗だろう?」
 大仰に両手を広げる仕草が、何故だか松野さんにはよく似合う。そうやってぐるりと店内を見渡して、
「ハニーには、うちの奥さんには……どれも、似合って、仕方ない!」
 大真面目な顔で言い切った。
 ――ああもう、ご馳走さまだこと。
「ええ、ええ、わかりました。でしたら、こんなのはいかがでしょうか?」
「なんなりと、マダム」
 恭しくお辞儀をされて、いよいよ頬が痛いほどの笑顔になる。
「今日仕入れた全ての花で、花束をお作りします。一輪ずつ、一番綺麗なものをお選びして」
 無茶苦茶な提案だと自分でも思った。けれど、これ以上のない名案とも。
 それは松野さんも同じだったようで――ぱあっと、またしても笑顔が咲いたのだった。
「そうしてくれ!」
 ほんと、いい笑顔だこと!



「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」
 深々と腰を折って、松野さんを見送った。もちろん、片手に花束、片手に牛乳パックの背中を。きっと、良い結婚記念日になることだろう。
 一仕事を終えたところで、他のお客さまはまだお見えにならない。作業した机を片付けようと、さきほど切ったばかりのリボンをつまみ上げた。
 松野さんは、たとえ一輪でも、必ずこの色のリボンを添えて贈る。たぶん、奥さまがすきな色なんだろう。なんだったかしら、冷静と情熱を秘めた色……?
 ――素敵な旦那さまが、愛する奥さまに、いつも贈る色。
「来年は、青薔薇なんてどうかしらね」
 勝手なことを呟きながら、お得意さんの記念日を、スケジュール帳に書き込んだ。