murmur World

 くつしたが落ちてる。
 玄関を開けて、すぐ目に入ってきたのはそれだった。たいして汚れてはいないけれど、ううん。親指のあたりが少し怪しげ。もう少しで穴があきそう。あとで買い足しとこう。
 靴を脱いで、屈んでそのくつしたを拾って、洗濯カゴ(うちは玄関横が洗濯・脱衣場になってる、反対側にトイレ)にぽいっと投げ入れる。ついでに手洗いとうがいも済ませた。
 洗濯物が、溜まってきてる。分別がてら、色物を先に洗濯機の中へ突っ込んでいく。今日は早く帰って来れたし、ほんとなら今からでも回せる。もう夕方だけど、部屋干しにすればいいんだし。けれど天気予報によると、明日は快晴で、絶好の洗濯日和らしかった。ちょうど明日はお休みで。折角なら、そっちの方がきっと良い。
 ふとカゴの中から見慣れたパーカーを認めて、思わずにっこりと笑った。
「んー? おかえりー?」
 いよいよ、声がした。瞬間、こんなアパートの短い廊下すら駆け出したい気持ちになって――近所迷惑を考えてなんとか踏みとどまって、でも実際ちょっと駆け足になっちゃって――まあいいやって嬉しい気持ちで部屋に行くと、
「おー! {{ namae }}おっかえりー!」
 くつしたを脱ぎ散らかした張本人、おそ松くんが、にかっと笑って出迎えてくれた。良い笑顔! すき!
「ただいま、おそ松くん!」
 おそ松くんの笑顔は、すぐテレビ画面に戻る。この前買ったばかりのゲームとゲーム機は、オンラインに特化していて、一人でも充分楽しく遊べるらしかった。こうしてプレイしているところを見ると、「買ってよかったなあ」なんてしみじみしてしまう。何やら劣勢らしいおそ松くんの「あっヤベッ」って焦った呟きと横顔も、なんだか嬉しい。かわいい。
「なに、今日早かったじゃん? どったの?」
 鞄を置いて上着を脱いでると、コントローラーをがちゃがちゃさせながら、おそ松くんが言った。
「うん、たまたまね。だから今からご飯作るんだけど、お腹すいてない? なにか食べた? あ、ビール飲む?」
 そう言ってからテーブルの上に、ビールの缶が乗ってることに気が付いた。まだ一本目みたい。持ってみると軽かったので回収して、流しで軽くゆすいだ。
「飲む飲む~! つまみも用意して! あ、そだ、{{ namae }}~あれ作ってよあれあれ、あ~……なんだっけ?」
「どれ……? じゃがいものやつ?」
 確かこの前美味しいって言ってもらえたのは……よくある居酒屋メニューの一つ、明太マヨポテト。
「そーそーそれそれ! あと枝豆も食~べ~た~い~」
「はいはい」
「はいは一回な!」
「はい!」
「よっし!」
 おそ松くんからよし、頂きました!
 ゴミ箱に捨てた空き缶すら楽しげに、歌うようにからんと音を立てた。おそ松くんと一緒にいる時の私は、かなり寿命が延びてると思う。さっきから顔が笑いっぱなしで、ほっぺたがちょっと痛いくらい。
 まずお鍋に水を入れて、火にかける。それから冷凍庫を開けた。枝豆はいつでも出せるようたくさん買って、小分けに冷凍保存してあった。それを取り出して、ひとまず台所に置く。
「今日はー? なににすんのー?」
「えっとね、前食べたいって言ってたから、麻婆豆腐」
「炒飯は!?」
「もちろん! 炒飯作るよ!」
「イエーイ!!」
 おそ松くんから歓声が上がる。よかった、一安心。だってもちろん、中華じゃない気分の時だってあるだろうし。和食の気分だったら揚げ出し豆腐、洋食だったら豆腐ハンバーグにするつもりだった。副菜は、あるもので適当に。
 次は冷蔵庫を開けた。作り置きの煮物やきんぴらは、おそ松くん用。すきな時に食べていいよと伝えてあるし、見てみると半分以上なくなっていて嬉しくなった。おそ松くんがいつ来てもいいように、どの段もぎっしり食材や料理が詰まっている。
 下段には缶ビールがずらりと並んでいて、おそ松くんが取った一本分、ぽっかりと空いていた。ひい、ふう、みい。
「あと何本飲みたい?」
「ん~~、何本でも~~!」
 言うと思った。くすくす笑いながら、冷蔵庫のすぐ脇、缶ビールの段ボール箱から補充する。これでよし。
 台所下の箱からじゃがいもを三個取り出して、皮をむく。そうこうしてるうちにお湯が沸いたので、枝豆をぶち込む、二分か三分。じゃがいもは小さめに切って、シリコンスチーマーにぶち込む、レンジでやっぱり二分か三分。
「どうぞ」
「ん、あんがとさん」
 じゃがいもを潰して明太子とマヨネーズで和えたものと、しっかり湯切りして塩をまぶした枝豆と、冷えてる缶ビールをテーブルに置けば、ちょうどおそ松くんがゲームを終わらせたところだった。
「おしまーい?」
「おしま~い! 最後全然勝てなくなったし!」
 ぷしゅっといい音を立てて、二本目の缶ビールが開けられた。おそ松くんにフラれちゃったコントローラーは、テレビ下の収納に仕舞う。ついでに落ちてたリモコンを拾って、ベッド(狭い部屋なので、専らおそ松くんの背もたれになってる)の枕元に広がっていた新聞と一緒に、おそ松くんの手の届く場所へ。そうしておけば自然と、チャンネルはおそ松くんのすきな番組になるっていう寸法だ。
「もうちょっと待っててね」
「へーい、待ってま~す」
 ちゃぷちゃぷと缶ビールを揺らしながら、ごきげんな様子でおそ松くんがおどけた。
「あっやっぱ美味い! じゃがいものやつうめえ!」
 後ろから聞こえてくるのはそんな声。
 ――なんて幸せなのかしら!

 おそ松くんはいつもこうやって、私の家に上がり込んでいる。合い鍵は渡してあったし、いつでも、ほんとうに何時でも来てくれて構わないと言ってある。たとえば真夜中の三時に「人恋しくなっちゃった」なんて乗り込まれた時には、もう死んでもいいとさえ思った。
 結構な頻度で来てくれるようになってから、どれだけ経ったことだろう。
 私が仕事をしている間にやってきて、ベッドでごろごろしながら、競馬の予想を立てたり、ゲームをしたり。冷蔵庫を勝手に漁って、くつろいで。
 帰宅してその痕跡を見つけるだけでも、「来てくれたんだなあ」と幸せな気持ちになれるのに。
 今日みたいに、一緒にご飯を食べられる日?
 そんなの、言わずもがな。
 今夜は最高!

「はあー、食った食った! ごちそうさんでした!」
「はい、おそまつさまでした!!」
「俺じゃん!!」
 おそ松くんは突っ込みながら、自分でけたけたと笑った。きれいに食べてもらった食器を流しに持っていって、
「飲む~?」
「飲む~!!」
 帰りがけに二人分のおかわりを取ってくる。おそ松くんは四本目、私は二本目。冷やしてる分、なくなっちゃうかも。
 夕飯前から飲んでいたおそ松くんは、まだまだ序の口といった感じで、かすかに顔が赤いだけだった。私は早いペースで飲んじゃったので、気分は既に酔っ払い。だって「おっ、良い飲みっぷりじゃん! おっしゃ飲め飲め!」なんて言われちゃったら、そりゃあ、ごくごく飲んじゃうでしょ?
 ふわふわし始めた視界の中に、
 手の届く距離に、
 目の前に、
 隣に、
 ――おそ松くんがいる。
 なんとなしにパーカーの裾をそっと掴むと、
「ん、」
 返事もそこそこに、伸ばした手はおそ松くんに捕まった。
「えへへ」
 付けてるだけのバラエティ番組をBGMに、私はおそ松くんにだらだらと話しかける。思ったことを脈絡なく声に出すのも、酔いが回ってる証拠だと思う。
「ねぇ、くつした、」
「へ? くつした?」
「うん、何色でもいい?」
「んん~? なに突然、どうしたのよくつしたが」
「穴あきそうだったから、買っとこかなって」
「ああ、なーるほど。んじゃ適当に買っといて。てかお前酔ってんな?」
「穴あいたら捨てちゃうね~」
「ねえ俺の話聞いてる~?」
「欲しいものあったら言ってね~」
「言うけど~。めっちゃ言うけど~」
「お小遣いは~?」
「足りてる~! でももっと欲しい~!」
「この正直者~! すき~!!」
「よせやい照れるぜ~!!」
 おそ松くんはそこでわざとらく鼻の下を指でこすった。
 ああ、ほんと、すきだなあ。養いたい。養ってる? 私、養えてる?
「おそ松くんを養いたい……」
 すぐ傍におそ松くんの肩があったから、遠慮なくこてんと頭を乗せた。
「おそ松くんを養いたい」
 言いながらぐりぐりとおそ松くんの肩に顔を埋めた。匂いがする。これはうちで洗濯したパーカーで、その証拠に、うちの柔軟剤の香りがする。
 なのに、はっきりとわかる。世界でいちばん、安心する。おそ松くんの匂い。
「すき」
 たった二文字の言葉なのに、お腹がかっと熱くなる、喉が焼けちゃいそうになる、
「おそ松くんがすき」
 想いが、そうやってせりあがる。
「おそ松くんの、クズで、ニートで、童貞だけど、お兄ちゃん力が高くて、優しいところがすき」
 言ってるうちに、とろとろと、瞼が閉じていくのが自分でもわかった。
 お腹はいっぱい、お酒はおいしい、ねむたい、いい匂い、おそ松くんが隣にいる、幸せ。
「でも……それだけじゃなくて……そうじゃなくても……たぶん……ううん……絶対すき」
 おそ松くんに捕まった手を、そのままぎゅうっと強く強く握り返した。
 ずっと捕まえていてほしい。
 
 知ってる、
 そう聞こえた気がした。



「……寝ちゃったじゃん!」
 俺は最大音量の小声という絶妙なバランスで叫んだ。俺ってばさすが。肩には{{ namae }}の頭が乗っかってる。すやすやと、安らかすぎる寝息が聞こえる。
「寝ちゃったじゃん……」
 今度は叫ばないで呟いた。明日は休みって言ってたし、
「今夜は寝かせねえよ?」
「きゃ~!」
 って展開があったはずなんだけど。おっかしいなー!
 なんでこうなったかって言えば、
 まあ、
 こいつが、俺のことだいすきだからなんだけど。
 俺がいてもいなくても早起きして、俺がいたら俺のために飯作って、俺がいなくても俺のために飯作って。俺のために掃除して俺のために洗濯する。俺のために会社行って俺のために仕事して俺のために稼いで、俺のために金をつかう。俺のために金をつかって、俺のために身綺麗な格好して。全部、俺のため。
 嘘だと思うだろ。
 ほんとなんだぜ、これ。
「知ってるっつーの」
 {{ namae }}の世界の中心は、疑いようもなく、俺だった。
 それを、他の誰でもない、俺が知ってる、わかってる、
 ――信じてる。
 そこんとこ、もっとしっかりわかってろって、俺は君に言いたいわけ。
「大体さー、クズでニートで童貞だけどお兄ちゃん力が高くて優しいところがすきってさー、前提条件酷すぎじゃね? 今更だけど。ね、聞いてるー?」
 右手は塞がってるから、仕方なく左手を伸ばして、もたれかかってる頭をなんとか撫でた。傍から見たらものすごーく間抜けな図。
「でさ、さっきそうじゃなくても、たぶん? 絶対? すきって言ったじゃん、どっちだよ、って話だかんなそれ。クズじゃなくてもニートじゃなくても童貞じゃなくてもお兄ちゃん力が高くなくても優しくなくてもすきって絶対すきって言った? ねえ言った??」
 左腕がぷるっぷるしてきた。正直この姿勢無理ありすぎ。わかりやすく言えば、よく電車の座席で寄り添って寝てる高校生カップル。しかもしっかり手ぇ握ってるやつ。っかあ~、照れる~!
 いや結構マジで。
「っていうかクズじゃなくてもすきって、それ、普通じゃない!? むしろそれがスタンダードでしょ!? クズがすきってやばいよ~本当、てか俺クズなの? ねぇねぇ」
 俺の右手を……左手にすり替える! そして空いた右手で肩を引き寄せて! 膝枕、一名様ご案内ってな!  ああ、ほんっと恥ずかしいことしてんな。いいんだけど。これで離したことにもならないし。だってお前のこと二度と離してやんないよ、俺。もちろん比喩ってやつ。でもなんか今は、手も、離したくなかったから。
「ニートな俺がすきなとこ悪いんだけどさ、じゃあ仮に、仮の話よ? この先俺が就職しちゃってもオッケーてことよな、まだそんな全っ然予定ないけど。全っ然ないけどー」
 膝に頭を乗せてやって(実際枕にしてる部分は太ももなのになんで膝枕って言うんだろうな?)、だらんと伸びた手を、なんかこう、いい感じに置き直してやった。膝枕の善し悪しとかわかんないけどたぶん大丈夫だろ。手も繋ぎ直して、これで俺も楽になった。
「童貞云々はノーコメントな、今更だし」
 胸に乗せてやった手の方と右手を繋いで、左手で頭を撫でる。今気づいたけど、頭が乗ってない側は立膝状態にするとバランスが良い。俺、膝枕マスターしたかもしんねえ!
「お兄ちゃん力が高いってのはなー、ぶっちゃけどうなの? そんな言うほど? そりゃあ今の今まで現在進行形で松野家長男松野おそ松としてやってきてますよー、だからなんての? 六つ子の魂百までってやつ? お兄ちゃん力が低くなるかは知らないけどさー。それでも良いって言っちゃったんだから、お兄ちゃん知らないよ~?」
 撫でるのに飽きてきて髪をいじる、手のひらで前髪全部あげてやった。でこ丸出し。そこから指先で眉毛をなぞる、鼻、そんで唇も。つまんでアヒル口にしてやる。むにむに。うわっ、やわらけっ。怖っ。
 それでもすやすや寝続けてる。ったく、これだから。
 俺がだいっすきだからって、家事も仕事も頑張るのは仕方ないけど、ほどほどにしろってな。
「あーこれ、腰いってえ……」
 精一杯屈んでかましたキスは、腰から嫌な音がした。俺、まだ膝枕マスターじゃなかったわ。
「……たとえば優しくなくてもすきってさ、バカなの? 俺よりバカじゃん。それ救いようなくない? 俺ね、知らないかもしんないけど、」
 そろそろ起こしたくなってきた。だってお前が聞いてくんなきゃ、全部ひとり言になっちゃうし。マジさみしい。
「{{ namae }}には、優しくしかできねーの」
 でも今、さみしいよか照れの方が少し勝つから。
 まだ、もうちょっと寝てて。