眼鏡をかけてくださいませ!

 いつまで、こうしていられるんでしょう。
 時々、考えてしまう。
 少々、躍起になって。
 だから、だから――作戦を練るのです。 


 首を長くして待っていたアニメの第五期とか。
 ずっと楽しみにしていた新刊の限定版だとか。
 大好きなサイトのリアルタイム連続更新とか。
 そういうものを前にした時、の目は、きらきらと輝く。
「……これでいいんですか」
「はい!!」
 こんな風に。
 けれど、今まさに見つめられている自分は、一新したキャラデザでもないし、ドラマCDだってついて来ないし、F5を連打しても更新はされない。
「嬉しそうですね……」
 清々しく気持ちいい返事に、ため息をついた。呆れながらも可愛いと思っていることが、には伝わっていることだろう。
「ええ、もちろん。とっても!」
 こんな些細なことで、にこにこと、ほんとうに嬉しそうに笑うなんて、全く呆れ果てた可愛さだ。
 思わずずれてしまいそうな眼鏡を、指で軽く直した。
 これこそが、愛すべき妹のご所望であり、その笑顔の要因であった。
 つい一昨日を、思い出す。

「兄様!劇場版!!」 
「……日本語でおk」
 ――本田菊は、非常に強く出来ている。
 細身に見えて十分に筋肉がついており、武術にも長けていて、剣道その他多数の有段者でもある。小柄に加えて女顔だと思って舐めてかかろうものならば、確実に痛い目をみる。
 その力は、全て、双子の妹にために。
 ありとあらゆるものから、この手で妹を護る。本田菊が非常に強く出来ている所以は、そこにあった。実際に、妹に関する物事や人々に対して、強情であったし、強堅であったし、何より強かであった。
「明後日から公開のあれですね?来場者特典に原画ポストカードが貰えますので、朝一のを観ましょうね」
 ――そして、妹に対しては、非常に弱く出来ていた。
 今も、自分の言葉にみるみる目を輝かせた笑顔を前にして、唇を噛んでにやけるのを抑え込んでいる。頭の中では可愛いを何度連呼したことかわからないが、顔には微塵も出していない。
「ちゃんと主語と述語をつけて喋りなさい、全く。私じゃなければ通じませんよ?」
「もちろん通じると思っていましたよ?さすが兄様ですね、さすが兄様ですねっ!」
「大事なことですか?」
「大事なことですっ!」
「ふふ、はいはい落ち着きなさい」
 ぽんぽんと頭をやさしく叩くと、妹は目を細めてはにかんだ。片割れ故によく似ていると、度々周りに言われようが、菊には全く実感できない。いかにして己がこのように、愛らしく微笑むことができようか。
「じゃあ、明後日なんですけれど……あの……えっと……、」
「……?なんです、歯切れのわるい」
 急に勢いを失って、眉を八の字にするの破壊力と闘いながら平静を装う。そもそも、劇場版と口にした時点で、彼女は全てを把握している。
 まず、単語だけでも自分には通ずること。互いに楽しみにしていた劇場版であること。明後日は、互いに用事のない休日であること。
 心からの安心と信頼の元、彼女はこうしてお伺いを立てるのだ。ならば、いかなることがあろうとも、断る理由など有りはしない。
 どうぞ、と発言を譲ると、意を決したようにきっ!とが睨んできた。
 眩暈がする。
「明後日――、眼鏡をかけてくださいませ!」
 しかし飛び出てきた言葉は全く予想外のものだった。
「……眼鏡?」
「お願いします!」
「え、いや、いいですけど……?」
「本当ですか!?ありがとうございます、絶対ですよ!」
「いやでも何でまた」
「……さ、先にお風呂頂きますっ」
「あ、はいどうぞ、ほかってらっしゃい……」
 ぱたぱたと遠ざかる後ろ姿を見送る。時計の針を見なくてもわかる、いつもより随分早い入浴時間だった。
 居間に一人残された菊は、呆然と呟く。
「……眼鏡萌えでしたっけ……?」
 視力はすこぶる良い方だったが、日常で眼鏡をかける機会が全くない、という訳でもなかった。
 パソコン用眼鏡もコスプレ用に伊達眼鏡も持っているし、そのことは妹もよく知っているはずだ。
“絶対ですよ”
 念押しするその理由を考えた。それはもう生まれた時からの付き合いであるわけだし、嗜好もよくよく似通っていて大体の趣味を理解でき得る関係であり、今もこうして一緒に暮らしていて――幸せなことに――おはようからおやすみを見守ることが出来る、唯一無二の片割れとして、誰よりも一番近しい存在として、その理由を考えた。
「妹可愛い」
「きゃわん?」「にゃうん?」
 出した結論に、愛犬と愛猫が不思議そうに首を傾げた。

 そして当日。
 結局わからないままだったが、可愛い妹のお願いを、聞かない兄はこの世にいない。いくつかある中、どれにしようか迷ったが、何かと汎用性の高い黒縁を選んだ。
「よくお似合いです。素敵ですね」
「ありがとうございます」
「格好良いです」
「……ありがとうございます、はいはいそろそろ行きますよ」
「はあい」
 小さな背中を軽く押して促しても、笑みはますます深められた。
 二匹にお留守番を頼み、きちんと戸締りをして、出る。早朝とまではいかないが、休日の朝ということもあり、マンションの廊下はしんと静まっている。一つ下の階では、見知った顔がまだ寝ていることだろう。(心の底からどうでもいいですけど)
「兄様、」
「ああはい。すみません」
 少々先に歩きすぎてしまい、一度足を止めた。早足で追いついたが、心底楽しそうに見上げてくる。
「……お世辞でも何でもありませんからね」
 ええい、我が連邦軍の妹は化け物か!
「だから照れてるんですっ」
 世辞など言った試しもないくせに!
 ですよねぇ、なんて。のんびりした声で返されては、ぐうの音も出ない。照れていることを知っている上、追い討ちをかけるとは。この世には随分凶悪な生き物がいるようだ。(いつもならもちろん、歩幅は合わせますとも。)
 それに加えて、兄という生き物は、妹に勝てないように作られているから仕方ない。ことさらご機嫌な妹には。

 歩いて駅まで行き、改札を抜け、快速をつかまえて、一度だけ乗り換えし、映画館へと向かう。
 多くの商業施設が固まって出来ている大通りは、既にかなりの賑わいを見せている。と言っても、どんな混雑も某イベント会場よりはマシ、という見解は、兄妹一致のものだったが。
 それでも、に不快な思いをさせないため、細心の注意を払う。歩く速度や位置を変えては、間違っても歩行者とぶつかったりしないように。特に野郎。特に、野郎。
「朝一ですけど、やっぱり人が多いですね。リア充爆発しろ」
「あら兄様。ご自分も爆発するおつもりですか?」
 なんですそれ聞き捨てなら無い。
 そもそもの意味としてはリアル――妹や趣味――は充実はしていたけれど、息をするように吐き捨てた呪詛――つまり多くのカップルに向けた言葉――としては、自分に返ってくるわけがない。
「はい?私が?リア充?なんですそれ新しいイジメですか?」
「ふふふ」
 またそうやって笑う。
 言われた言葉も忘れて立ち止まりそうになると、丁度よくそこは映画館の自動ドア前で、
「今日はカップルデーです!」
 どん、とほとんど体当たりの勢いで、飛びつかれて押し込められた。開かれたドアに、二人で入るかたちに。
 衝撃と、宣言に、今度こそずれた眼鏡を指先で押し上げた。やや体をよじって妹を見下ろすと、後ろから抱きついてきた格好のまま、照れくさそうな笑顔を向けられた。
 心臓が痛い。
「眼鏡かけて来てって、そういうことですか」
 ――いつも通りの声、いつも通りの呆れ笑い。
 ようやく合点がいった、そんな態度に映るだろう。くらくらする眩暈も、どぎまぎする心臓も、いつだって飲み込んできた。
 こうして日々嘘をつく。
「はい!人相隠しに眼鏡はベタかしらと躊躇われたんですが……」
 やっぱり、双子なので。
 ――俯いて発せられた小さな声は、菊の耳には届かない。
 その時がどんな顔をしているか、菊の目には届かない。
「もちろん眼鏡萌えです。眼鏡兄様!萌え!」
 即座にがばりと勢いよく向き直り、拳を握る姿に体中の力が抜かれるようだ。やっぱり瞳はきらきらしていて、頬はつやつや紅潮している。
「いやでも私とお前でカップルってっ」
 釣られて、と言うよりもさっきから顔に熱が集まって仕方ないのに、止めを刺されそうで声が若干裏返る。
 恐らくたまたまカップルデーのことに気がついて、閃いて、眼鏡をかけさせた。
 つまり、それは、
「わたしとじゃお嫌ですか……?」
(今日だけは兄妹じゃなくて恋人としてデートしてねお兄ちゃんってことですねわかります死!!)
「カップル二枚で」
「わあ素敵!」
 即座にキリッと顔を引き締めると歓声が上がった。やんややんや、と謎の声援まで飛び、嗚呼なんて可愛い妹だろうと生涯で何千何万回目かわからない感動をしみじみと覚えたところで、
「まあ前売り券あるんですけどねー」
「ですよねー」
 長々とした茶番が終わった。
 当然のごとく、グッズ付きの前売り券は確保済みだった。コンプリート。常日頃節制を良しとする兄妹だったが、妥協は許されない。
「カップルデー関係ないじゃないですか」
「でもカップル割引でドリンクセットがお安くなります」
「この妹ちゃっかりしておる」
 どうしようもなく、シスコンで、ブラコンで、その上オタクな二人だった。
 チケット売り場で前売り券を当日鑑賞券として引き換え、来場者特典も無事に――
「嫁……嫁きました……嫁……ぐおおお」
「家まで……家までの辛抱です……ひぎい……」
 嬉しい悲鳴の音量を絞る姿は全く無事とは言えなかったが――手に入れて、後は開演を待つばかり。
「あ、ほんとだカップル割引なんてあるんですね……うわあ……」
 これは酷い。正直な感想はそれだった。そこだけ囲むように描かれたハートマークのせいで、売店のメニューの中でも一際目立っていた。おびただしい数のハートから、執念のようなものを感じる。
「爆発しちゃだめですよ?」
「はいはい。そうでしたっけね。折角だから頼みましょう」
 基本こういう場所での飲食物はお高い。割引してやっと正規の値段になったくらいだったが、なかなか長い映画でもある。水分摂取も必要だろう、内容によっては。
「ああいいですよ、これくらい兄に任せ……、」
 財布を取り出したに言いかけて、はたと、“お願い”を思い出す。それなら単語が変わってくる。
 なまじお互い律儀なのがいけない。
「か、彼氏に任せておきなさい……?」
「え、あ、ありがとうございます、菊……?」
「……」
「……」
 そして打てば響く掛け合いが染み付いているのもあって、会話はぎこちなく成立してしまう。
「何ですかこれ下手なコスプレよりずっと恥ずかしいですよ!!」
「すいません恐れ入りますすみません!!」
 頭を抱えて羞恥に耐える。さっきのように、冗談半分ならきゃいきゃいと笑い飛ばせるのに、時折こうして行き詰る。(じゃあ言わなければいい、という問題ではないのです。)
「カップルには程遠いですね……」
「そりゃあ、その……兄妹ですし」
 当然のことを口に出してしまえば、自分の体が錆びてしまったかのように、ぎしりと軋んだ気がした。
 いつまで、とこうしていられるんだろう。向けられるそれは、あどけない、兄への憧れ。自分の想いと、同じではあり得ないもの。あり得ていいわけも、ない。
 いつかは――。
 けれど全て、とうの昔に、覚悟の上。
「じゃあ修行するしかありませんね」
「……はい?」
 いかにも真面目そうに言うので、思わず聞き返す。
 そもそもカップルであるということに修行は必要なのだろうか。経験値をためてレベル上げをしなければリア充になれないのだろうか。今日のは何故、そんなに固執すのだろう。彼氏彼女の関係が羨ましいのだろうか。考えたくはないが年頃の女性だから無理もない、するとこれは練習?
 どんどん飛躍する思考は、
「これはもう、しばらくは付き合って頂かなければなりません」
 自分の腕をそっと掴まれた瞬間に、弾けて消える。
 本当に、なんという顔で笑うんだろう。そこには、全幅の信頼と。安心と。
 ありったけの親愛が、花開いていた。
「――これじゃあ、いつまで経っても兄離れ出来ませんね」
「ほんとですね。誰のせいでしょうね」
「皆目見当もつきません」
 全て、とうの昔に、覚悟の上。
 けれど――今は、自分だけがこの笑顔を見られるということが、何よりの誇りだった。
「なんなりと。私はお前の、兄なのですから」
 今はまだ、私の可愛い妹のままで。


 ――いつまで、こうしていられるんでしょう。
 ――いつまで。


「次は同キャラビフォーアフターでコスでもしますか」
「あら、いいですね。わたし、ヒール履いて頑張りますね」
「お前とコス合わせする時はそこが問題なんですよねぇ……転びそうでねぇ……」
「なっ、また子供扱いして……!」
「言わせておいてあげます」
「酷い!」
「それと今度は、私から、きちんと誘わせて頂きますね」
「? 何をですか」
「デートですよ」
「は、え、」
「カップルデーにかこつけなくても、いつでも」
「あの、」
「今日、デートにしたかったんでしょう?」
「……、……はい」
「まあちょっと無理やり感ありましたけど可愛かったのでいいと思います」
「きょ……恐縮です……」
「世辞ではないですよ」
「!?……もうっ!!」
「しーっ、静かになさい。始まりますよ?」
「……はあい」
 繋いだ手はそのままに。
 暗転。幕が上がる。


(いつまでも、こうしていられますように)