硝子のお猪口
「おや、これは?」食器の水切りに置いてある、見慣れないそれに気付いて問いかけた。
口はまあるくやや広く、底はすっと細長い。10cmほどの、透明な硝子で出来た、
「……お猪口?」
それにしては少し背が高い。ソファで本を読んでいた妹が顔を上げる。
「違いますよ」
言われながら、自分は手前の座布団(妹曰くはクッションだったが、どちらでも同じようなものだ)の方へ座った。
「一輪挿しです。かわいいでしょ」
「ああ、花瓶だったんですか」
テレビをつけてもいいですかと声をかけてリモコンを手に取る。いいですよと返事を受けるのと同時に電源を入れた。妹はまた本のページをめくり始める。録画してあったアニメを一覧から引っ張り出した。
それにしても、所謂女の子のかわいい、は判りかねる。ああいうシンプルなものでもかわいい、と言うし、リボンがふんだんにあしらわれた魔法少女もかわいくて、仮に男の自分がそれを身に纏ったとしてもかわいい、だ。これは、我が妹に限った話だろうが。
「百均で買ったんですが、安くてかわいくて一目惚れでした」
「そうですか、よかったですねぇ」
「はい」
うふふ、と笑い声。彼女がご機嫌なのはいいことだ、素晴らしい、自分の世界にとっては最上の喜びだ。
「お花飾るかはわからないですけどね……」
ずるり、とソファから滑るように降りてきて、目線が近いものとなる。本はもう閉じてあった。どうやら一緒にアニメを観ることにしたらしい。ソファはこうして時々、彼女の背もたれになる。
「まあ一般庶民には花を飾る習慣とかありませんからねえ」
「うう……でも一目惚れだったんです……」
ざっくり言ってやれば、膝を抱えて体育座りになった。かわいい。
「三話くらい続けて観ましょうか」
妹も観るなら、本腰を入れて消化してしまった方がいい。本当ならリアルタイムで視聴したいところだが、なかなかそうもいかない。
「じゃあ私お茶淹れますね」
「お湯は沸いてますよ」
「はあい」
台所に向かった妹が、それに目を留めたのか、言う。
「お猪口なら、ふたっつ買ってます」
確かに、それもそうだった。
“ふたっつ”並んで運ばれてきた湯呑みを見て、尚更そう思う。
「はいどうぞ」
「はいどうも」
一口飲んで、互いに視聴の心持ちが出来ていることを知ると、再生ボタンを押した。
……結局、昨日は立て続けに六話分も(途中で別作品に移ったとは言え)観てしまって、床につくのは大分遅くになってからだった。自然と目を覚まして、まず隣を見ると、兄の布団はもう畳まれていて、そこにはなかった。いつものこととは言え、お早い。ぽちくんの散歩とジョギングを兼ねているとは言えそれが健康的なのか不健康的なのか判りかねる。
時にバイト、時にネトゲ、時に原稿、もう少しばかり睡眠を取るべきじゃあないかしら。そしてたまには自分に寝顔を見せるべき、と思う。
上半身だけ起こすと、足元の方に丸まった毛玉が一つ。すやすやと、気持ち良さそうにたまさんが寝ている。眉間のあたりを撫でてやると、少しだけ動いて小さな腕で自分の顔を隠すので、布団を畳むのは諦めた。
居間にしている部屋への引き戸を開けると、兄は既に朝食を作っている。
「おはようございます、今日は早いですね」
いつも起こされている身としては、それはこちらの台詞です、とは言えなかった。
「おはようございます。いい匂い」
「もうすぐ出来ますから、顔洗ってきなさい」
「はあい」
眠気の残る体を引きずって洗面所へ向かう。ぽちくんが足元にじゃれついてくるのは、散歩帰りではしゃいでいるからだろう。かわいい。
そしてマンション特有の、短い廊下に出たところで、気付いた。正面は玄関。左手には洗面所兼脱衣所。右手にはお手洗いと、兄妹二人の趣味部屋がある。
玄関には備え付けの靴箱があって、その上は細々としたものの置き場にはちょうどよかった。たとえば銘々の嫁フィギュアとか。出がけに持っていく、二人分の鍵だとか。
そこに、昨日までなかったものが、乗っている。
安くてかわいい、一目惚れで買った、一輪挿し。
水が浅く入れてあって、野の花が一本、挿してある。
「きゃわん?」
不思議そうなぽちくんの鳴き声がした。きっと首を傾げてる。
「……もう!」
一瞬で踵を返したくなるのをどうにか抑え込んで、当初の予定通りに洗面所に飛び込んだ。
「もおー!!」
唸るような声は台所まで届いているだろうから、きっとしたり顔をしているに違いない。絶対だと断言できる。鏡に映っている、この顔と同じ顔で。
それはそれは、呆れるくらいの、笑顔だった。