ただいまを一緒に

 じとりと肌にはりつくような、実に嫌な暑さ。
 飛行機から降りると、日本の夏が待っている。
「はあ……っと着いたな……」
「疲れた……」
 ごきり、と首を鳴らせば、隣のアーサー――眼鏡をかけたストロベリーブロンドの方――がそんなことを言うので、アーサー――ピアスをしたプラチナブロンドの方、愛称はアート――が食いついた。
「俺の台詞だ馬鹿起こすなってあれだけ言ったのに起こしやがって!!」
「いやっでもちょとは寝かしてやっただろ!?」
「何様だよ!!」
「だって暇だったんだもん!!」
「だもんじゃねーよバーカ」
 やれやれとアートがため息をつく。全くもって、いつも通りのやり取りだった。可もなく、不可もなく。
「……」
「……なんだよ」
「いーや、別にぃ?」
 日本は母国ではなかったけれど。
 “帰ってきた”と実感がわくようで、それがアーサーには嬉しかった。
「……急にニヤニヤしやがって変な奴……」
 ただ笑うアーサーに、アートは思わず舌打ちを落とす。この夏は、まだ始まったばかりだと言うのに色々とありすぎた。と言っても、彼に襲いかかるものは長旅の物理的な疲弊だけ。
「いいからいいから! さ、帰ろうぜ!」
 何よりも、夏にも負けじと暑苦しく笑う親友がうるさいので。
 “色々”を起こした誰かさんのことなど、もう欠片たりとも思い出すことは、なかった。
「はいはい……あー電車だるいからタクシー使おうぜ」
「マジで?!やったー!!」
「奢られんの前提だな」
「That's right!!」
 アートの提案に両手をあげてアーサーが喜ぶ。ここまであからさまだと逆に清々しい。
「はいはい……まあどうせ同じマンションだしな」
「しかも隣の部屋だしな!」
「お前荷物持ちな」
「えーーー」
「Hey!ってことで本田、ついでに乗ってくか?」
「あれ菊いたのか?」
 アートが振り向いて声をかけると、まず菊はアーサーの言葉に「失礼ですねちゃんといますよ」と淡々と返す。
「珍しいですね、アートさんからそんな申し出してくるなんて」
「まあどうせ同じマンションだしな!」
「お前が言うな馬鹿アーサー」
「いっで!!」
 意気揚々と宣言するアーサーを軽くどついて、アートが続ける。
「あの通りペットと仲良いし。ついでだ」
 彼のペットと彼の妹は、楽しそうにお土産を見ていた。よくよく見れば、菊は妹の分の荷物も持っている。空港のお土産コーナーの通路はそう広くもないので、邪魔にならないようにだろう。さらに言えば、つかず離れずの位置で、彼が妹を見守っていることがアートにはわかった。多分さっきからずっと。
「過保護だこと」
「当然です」
 ぼそりとアートが呟けば、しれっと菊は断言する。
「女の子たちナカヨシコヨシだよなー。生徒はもう帰っちゃったけど……」
 二人のやりとりを特別気にとめなかったアーサーが肩を落とした。彼の可愛い生徒はもう両親の迎えが来ていて、大きく手をふって別れたばかりだ。教授と教授の奥さんとも挨拶が済んで、いよいよもう帰るばかり。
「折角の申し出でほんっとにもったいないんですけど、私は妹を見送らないといけないので」
「ほんと現金だなお前」
「見送り?」
 アーサーがきょとんと訊ねれば、「これから帰省するんです」と簡潔な答え。
「まあ、私はバイトで帰れませんけどね」
「ふぅん。帰省ね」
「あんたらは……、いえ。じゃあそろそろ時間ですので」
 帰省しないんですか、と言いかけて止めたのは、何も気を遣ったわけではない。時間も迫っていたし、聞いたところで自分にも彼らにも意味はないだろう。
「おー。お疲れ!またなー菊!」
「……オツカレサン」
「ええ、では。Have a nice summer vacation」
 アーサーは笑顔で拳をつきあげて、アートは背中を向けてひらりと手をあげる。菊は形式じみたお辞儀をする。
 こうして三人は別れた。


「ほら。行きますよ」
「はい、兄様。それじゃあまた」
 ちょうど店から出てきたところに声をかけると、ぺこりとお辞儀をして、は丁寧に別れを告げる。  小走りで飼い主の元に戻るペット――と言っても人間だけれど――の図を微笑ましく見守ってから、彼女はお礼を言って、兄から荷物を受け取った。
「疲れましたねぇ」 
「ねぇ。お疲れ様でした。楽しかったです!」
「はい、お疲れ様でした。楽しくもありましたね。デジカメのメモリいっぱいですよ」
「メモリーカード、何枚お使いになりましたっけ……?」
「ちょっと考えたくないです……お前が予備持ってきてくれて助かりました」
「抜かりはありません!」
「流石私の妹!」
「うふふ。ネタのストックには困りませんね?」
「全くです。あああ印英英うめえ!」
「うめえ!」
「真似しない。めっ」
「ふふふ」
 ずっと緊張しっ放し、ではなかったが。
 兄妹二人きりというのは、二人にとって、とても落ち着くものだった。
 話の内容はどうあれ。
「そうそう、お土産はきちんと持ちましたね?」
 がらがらがら、と共だって歩いて鳴り響いていたキャリーバッグの音が、一つ鈍くなる。歩みを遅くするを見れば、少し俯いた暗い顔。
「……はい。……ねぇ兄様、」
「駄目です」
 続けられる言葉がわかっているからこそ、菊はばっさりと言った。
「うう……どうしても、わたし一人で帰省ですか?」
「……どうしても、です」
 残念そうな声と表情に心が刺すように痛んだ。けれど、こればかりは致し方ない。
「フェリシアーノ君やルートヴィッヒさんに無理を言ってバイトを代わってもらいましたし……」
「……」
「その分暫くは出ずっぱりです」
「……」
 言えば言うほど、の足は重くなる。
「と言っても、帰省しないわけじゃないんですよ?」
「わかってますよ……」
「じゃあ何むくれてるんです」
「……だって一緒に帰りたいじゃないですか」
 むすっとした恨みがましい目。
 こんな風に拗ねた妹を、これまで何回何十回、何百回と見てきたことだろう。
「そりゃあ私だってお前を家まで見送れないのは心配ですけど」
 込み上げてくる笑いを堪えて、意地悪を言った。
「こ、子供じゃないんですから!」
「ええ、子供じゃありませんとも」
「うう……」
 ぱっと顔を上げて赤らめてまた沈む。
 忙しない仕草すら愛おしいなんて、きっと彼女は思いもよらない。
「乗り換えまで一緒に行ってあげますから」
「!! はいっ」
 今度こそ嬉しそうに目を輝かせて即答する姿にはもう堪えきれず、笑うしかなかった。
「子供ですか」
「子供でいいです」
 なんとまあ、世界で一番早くて可愛い前言撤回があったものだと、菊は一人で頷いた。
 ――時間帯のせいか、夏休みの真っ最中だからか、下りの電車は乗客もまばらだった。
「皆によろしく言っておいてください。ぽち君とタマが太っているようでしたら止めてください」
「ふふ。わかりました」
 無駄だと思いますけどねえ、と続ければ、なおも妹がくすくす笑う。実家に預けた可愛い二匹が、どれだけ甘やかされているかなんて想像に容易い。
 既に車内に乗り込んでいる彼女は、随分と名残惜しそうで。発車前の、開いた扉の前から離れようとしない。
「夏は浮かれた輩が多いですからね、気をつけるんですよ、地元に着いたら連絡なさい」
「はい。兄様もお気をつけて」
 まばらになっていた前髪を手で払ってやり、照れくさそうにするに萌えたところで発車のベルが鳴った。
 電車から身を離しても、畳み掛けるような言葉が続く。
「じゃあ、一足先に待ってますからね、バイト頑張ってくださいね、無理しちゃだめですよ!」
「はいはいわかりましたわかりました」
 控えめに手をふりながら、いよいよ電車が動き出す。
「兄様、またね」
 扉が閉まる一瞬前に、がそうちいさく言ったものだから。
「……はい、また」
 ふった手を、いつ下ろすか、菊は少しだけ迷った。


「……ただいま帰りました、っと……誰もいませんけど」
 自問自答のひとり言を呟いて、久々の我が家。そして、久しぶりの、一人きり。こんなに静かな家は、そう言えば一人暮らしをしていた時ぶりだと思い至る。
 二匹を飼う前、そしてが越してくる前。
「はー疲れましたねー……」
 どさりと荷物を置いて腰をおろしてしまえば、もう動く気にはなれなかった。体力には自信があったが、海外で長期滞在となれば話は別だ。
 ほんとうに、彼女がいてくれてよかった。
 閉じた瞼の裏、ありありと思い浮かぶ、非日常だった夏。お泊りするヴィラに到着するなりダブルベッドしかなくて焦ったこと、結局そのまま毎晩添い寝したこと、お昼にビーチでBBQをしたこと、リア充ごっこに興じたこと、夕日のビーチでデートをしたこと、パーティのため一緒にドレス選びをしたこと、
 それから、最後の夜のパーティ。
「……さっさと寝ますかね」
 掃除も洗濯も買い物もデータ整理も明日でいい。
 どの道今は一人なのだ。


 夢も見ないでぐっすり眠るということは、なかなかない。
 二次元嫁も出演するし、即本に出来そうなほど濃厚な絡みの夢もある。
 それよりも、いつもいつもいつも夢に見るのは――


「おはようございます」
 目の前いっぱいに、覗きこんでくる顔があった。
「はっ……?!」
 起き上がろうとして、そんなことをしたらの頭にぶつかると気付いて、戻した勢いで後頭部を打ち付けた。地味に痛い。
 夢の続きと思ったことも、いつもなら有り得ないだらけた自分を見られたのも恥ずかしい。結局昨日はシャワーを浴びて、布団を敷くのも億劫で、ソファに沈んだそのままの格好で寝入ってしまった。
「いけません兄様。こんな所で寝たら、疲れが取れませんよ?」
 彼女が隣にぽすんと腰かけてくるので、ゆっくり体を起こした。
「帰ったんじゃ……?」
「安心してください、お土産はきちんと渡してきました」
 歌うように彼女が言う。
「そういう問題じゃないでしょう」
「残念ながらぽちくんもたまさんも太っておりました……」
「でしょうねぇすぐ甘やかすんだから……っじゃなくて、何で」
 何で戻ってきたんですか。
 言おうとした言葉は、笑顔一つで遮られた。
「おかえりなさい、兄様」
 ――これだから全く。
 もう、彼女がしたいことも、されたいことも、言いたいことも、言われたいことも。わかってしまう。わかってしまった。
 そういう風に出来ていた。
「……ただいま。おかえりなさい」
 そうして欲しい言葉を言ってやれば、
「ただいま帰りました!」
 頬が疲れてしまいそうなくらいに、満面の笑みを浮かべるのだ。
「馬鹿な子ですねぇ」
「何とでもおっしゃって下さい」
 手を伸ばして、どこか得意げな妹の髪を撫でる。少し後ろがはねていて、もしかしたら朝、急いで出たのかもしれない。
 実家は、そう遠くもなかったけれど、かと言って近いわけでは決してない。
「可愛いって言ったんですよ」
「……はい?」
 大変だったろうに。
「ほんとうにお前は……、全く呆れて可愛いしか言えませんよ」
「……な、な、なんですかそれ」
 急にうろたえてさ迷う目線もお構いなしに、撫でる手は止めてやらなかった。
「馬鹿な子ほど可愛いと言いますし」
「……もう!」
 またからかえば、威力のないパンチが飛んでくる。
 こんなやりとりを、これまで何回何十回、何百回としてきたことだろう。
 これからどれだけ、見届けられるだろう。
 それでも、たった一言のためだけに、自分のところへ戻る妹に。
 少し自惚れるくらい、許されてもいいはずだ。
「――ああ、こんな時間でしたか」
 眩しいと思ったら、随分と陽がのぼってしまっていた。朝のアニメなら完全に遅刻している時間帯。と言っても、録画予約に怠りはなかったが。
「お腹空きました?」
「そうですね……ってしまった冷蔵庫空っぽ……!」
 帰宅してからろくすっぽ食べなかったし、自覚すれば急に空腹だ。
 旅行前に、もちろん腐らせてはいけないと、綺麗に使い切ったまま。
「大丈夫です、援護物資たくさん貰いましたから!」
 がビニール袋を足元から取り上げると、色とりどりに夏野菜が入っている。
 冷凍庫に入っているいくつかの食材と合わせれば、豪華な昼ご飯にできそうだった。
「ああ助かります有難い……!ふむ、じゃあ」
「!」
 立ち上がって意味ありげに笑ってみせれば、きらきらした瞳がこちらを見上げてくる。
「台所に立つのも久々ですし。バイト前に手慣らしといきましょう」
「わあ!!」
 歓声と共にも立ち上がり、足は自然と台所へと向かった。二人分の足音が響く。
「わたしもう、兄様の料理が恋しくて恋しくて仕方なくって!」
「嬉しいですねぇ。手伝ってくれますか?」
「ええ、もちろん!」
 手を洗って、エプロンをつける。まくる袖もないのに腕まくりをして気合を入れる。
 夏の、眩しいお昼前。
 双子の兄妹の昼食作りがはじまった。


「一緒、ですよ?」
「はいはい。一緒、ですね」