いろのないせかい


 いったいだれがおとしたんだろう? こんな、きれいなもの。
 
 は窓に近寄り、あたたかな日射しにそれを透かしました。
 この部屋には色がありません。薄いレースのカーテンも、高い天井も、床も、壁も、ベッドも、椅子も、机も、本棚も、植木鉢も、みんなみいんな、白でした。この間からの視力は少しおかしく、目に映る全てのものが白色をしていました。
 なのに、これは綺麗な紫。
 紫色の、小さな石。
 久しぶりに見た色が嬉しくて、嬉しくて、これ以上ないくらいの宝物に思えました。
 きれいだなあ。
 笑い声をおさえるために、は口を手で覆います。この部屋に彼女がいることを知るのは、どうやら限られた人間だけのようでした。だから、なるべく静かに過ごすようにしていたのです。人の気配なんて、普段はとんと感じられませんでしたが。
 この、どことも知れぬ建物で、は一人きりでした。
 いよいよ込み上げてくる笑みに耐え切れず、ベッドへと移動して、枕に顔を押しつけます。
 握りしめた紫はたちまち熱をもち、彼女と同じ体温になりました。
 仰向けになって、指でつまんだ石を見上げます。それはそれは美しい紫でした。
 きれいだなあ。もう一度呟いてから、は急に渋い顔を作りました。どうも、この部屋に押し込まれてから、独り言が多くなったようです。他人と話すどころか、自由に外に出ることさえ許されていない生活ですので、無理もありません。
 がこの部屋に連れられて――つまりこの“世界”に連れられて――から、そろそろ一月が経つ頃でした。
 まだ若いのに! そう声に出してしまい、罰が悪くなって黙ります。
 ふと、手の中に紫の石があることを思い出しました。
 ねえ?
 誤魔化すように、がそう問いかけた時でした。
 しゅるんと風が舞い、ぐるぐると部屋を暴れ、やがてそれは嵐になりました。本棚の中身が全て飛び出て、植木鉢はひっくり返り、机に置いてあったカップは派手な音を立てて割れました。カーテンが引きちぎれそうにバタバタとうるさく翻りました。
 は瞬きもしませんでした。怯むことも、部屋の様子を一瞥することもせず。――できなかったのです。
 大きく目を見開いて、まばゆい紫を見つめていました。鮮烈な光がを飲み込もうとしています。いつか臨んだ夕焼けの端、目覚めはじめた夜の色――おそろしく美しいそれを、一秒でも多く眺めていたくて、彼女は目を見開き続けました。
 だから、その瞬間を、見ることが出来たのです。
 光の中から、手が、伸びる瞬間を。
「……ころ、して、やる……!」
 小さな手が、の首を絞めました。
 死にかけの悪魔の、血みどろの手が、細い首を絞めました。
 首輪がはめられた、彼女の細い首を。
 赤い目が黒い目を睨み、黒い目は赤い目を笑いました。
 ――だれが、おとしたんだろう。こんなきれいなもの。


 は上機嫌でした。それこそ、ここ一月ぶりの大喜びでした。久しぶりに顔の筋肉を使っているので、ほっぺたが痛くて仕方ありません。
 まずは、落ちた本を拾います。床から天井までを埋める、壁と一体化している背の高い本棚(おかげで、本棚は倒れてこなかったのです)に納められていた本達は、全て床にばら撒かれていました。けっこうな量です。表紙を軽くはたいてやり、折れた頁の皺は手で伸ばすことにしました。一つ一つ仕舞っていきます。目を留めても、本の題名はことごとく読めません。この世界の文字は、にとって、ミミズの集合体でしかありませんでした。
 それから、割れた植木鉢とカップを、寄せ集めてゴミ箱へ捨てました。土と、かろうじて無事だった花は、隅の方へ選り分けておきます。新しい植木鉢はもう頼んであるので、少しの間このままで辛抱してもらいます。
 そして、シーツを取り替えたいのですが、これがなかなか厄介です。
 なんせベッドの上には、悪魔が横たわっているのですから。
「どうしよう……」
 あの後、悪魔はふっと意識を失いました。無理もありません。傷口のない場所が、いっそ無いと判断した方が清々しいくらいの身体です。もっとも、おびただしい流血は、今は見られませんでした。怪我も、ほとんどが治っています。先程やってきた彼――つまりをここに連れてきたその人――が、治してくれました。新しいシーツも、彼がすぐに持ってきてくれたものです。
 彼は、のおねがいを聞いてくれ、そのうち二つを叶えてくれました。
 そうして、あとの一つはきみ次第だと、やさしい声音で、床に頭をこすり付けるに言うのでした。
 が頼んだおねがいは、三つ。
 一つ、この悪魔を、たすけてほしい。
 一つ、この悪魔を、還してあげたい。
 一つ、この悪魔を――、
「あっそうだ! ……ご、ごめんね?」
 一応謝るだけ謝ると、はえい、と悪魔をごろんと転がします。ベッドの左端へ寄ってもらい、その隙に、右半分だけシーツを剥がし、右半分だけ新しいシーツを敷きます。ベッドの反対側に回って、もう一度、悪魔をごろん。左半分も同じようにすると、なんとかシーツを取り替えることができました。
「これでよし、と。我ながら頭いい……!」
 調子にのったが笑いながら剥がしたシーツを畳みます。畳む時も、畳んだ後も、それに見惚れました。
 きれいだなあ。
 の、この前から色のなかった世界に、悪魔だけが色付いて見えます。
 何故だかはわかりません。
 には、自分が何をしたのか、どうして悪魔が現れたのか、何もわかりませんでした。
 石に独り言をぶつけたら、石が光って、悪魔に首を絞められた。
 ――わかっていることと言えば、それくらいです。
 ただ、眠り続ける悪魔も、その血がべったりとついたシーツも、鮮やかに、の目を楽しませてくれます。
 だからどうしても、顔が勝手に笑ってしまって、ほっぺたが痛いのです。
 血がおそろしいものだという認識は、確かにあったはずなのに。
 どうしてだかには、まるで遠い昔話のように、思えるのでした。
「まだ、起きないのかな」
 早く早くと高鳴る胸がざわつきます。起きるまで、起きているつもりでした。元々眠れない日々でしたから、ちょうどいい。そんな風に、また笑ってしまいます。
 床に座り、枕元と視線の高さを合わせると、悪魔の横顔がよく見えました。怖いほど、静かな横顔です。はここで初めて、悪魔の頬に赤い紋様があることを知りました。
「早く起きないかなあ」
 もう独り言を呟いてしまうことに抵抗はありません。なんてったって、“一人きり”じゃないんですから!
 はたまらず口元を手で覆いました。大声で笑い出したい気分だったのです。
 ああ、よかった、ほんとうに、よかった。おねがいを、きいてもらって、ほんとうに。
 たすけてほしい、
 還してあげたい、
 ――なんてわがままなおねがいだろう。
 連れてかないで、なんて。