不愉快な狭い部屋


 目を覚ますと真新しい天井が飛び込んできて、悪魔は暫し、戸惑って瞬きを忘れました。
 窓からあふれる光が、眩しく目を刺してきます。
 不愉快です。
 終わりと始まりとを、急速に感じざるを得ませんでした。どちらも選択の余地すら与えられないものでした。胸糞悪ィ、と悪魔は舌打ちを落とします。
 軋む身体を起こすと、自分の状況がよくわかりした。柔らかなマットと清潔なシーツの上、薄いのにあたたかな上等な毛布をかけられて、悪魔は寝かされています。
 不愉快です。
 ぐるりと周囲を見回すと、意識が途切れる前に居た場所よりは、大層マシな環境のようでしたが、どちらにせよ狭い世界には変わりありません。
 小さなベッド、小さな机、小さな椅子、小さな窓、そして一つしかない扉。全てが小さなことに自分が含まれているかと思うと、吐き気がしました。彼はもう一度舌打ちを落とします。
 とてもとても、不愉快です。
 ああうぜェ。
 彼は元々吊り上がった赤い目を、さらに憎らしげに歪めました。誰が来ようがぶち殺してやろうと思っていました。
 ニンゲンなら、どれでもよかったのです。
 殺してやる。
 血を抜き、肉を削ぎ、腹を裂き、頭を割り、目を抉り、鼻を潰し、歯を砕き、腕をもぎ、足を断ち、けれどすぐには死なないよう術をかけて。そして笑い声だけは聞こえるよう、耳だけはそのままに。
 己にされた仕打ちを全て味合わせて殺してやる。
 ――がちゃり。
 尖った耳が音を拾いました。
「あ、起きたー!!」
 突如部屋へ入ってきたのはごく普通の、メスのニンゲンでした。心底嬉しそうに笑いながら、机の上から救急箱を取って抱え、悪魔へと近づいてきます。随分大きな救急箱で、それらを支える手足は妙に頼りなく、どうやら大分やつれているように見受けられました。足取りはおぼつかず、一歩ごとに大きくよろける始末です。
 かくんっ、ついに膝が折れ、箱の中身がひっくり返ります。消毒液の茶色い瓶が飛び出し、包帯がころころ転がって伸びました。中身を回収しようと慌てて立ち上がると、別の黄色い錠剤が入った瓶を踏みつけて、メスのニンゲンはもう一度転びました。強か腰を打って涙目になると、はたと気づいたように悪魔を見つめて、困り顔で照れ笑いを浮かべます。
 悪魔はと言うと。
 呆気にとられていました。
 頭も目も鼻も歯も腕も足ももちろん耳も、ごく普通の、メスのニンゲンでした。
 だけれども、その心の核なるものは、ひどく寒々しく、暗いものであることが、悪魔の彼には知れたのです。塗りつぶしたかのような――いいえ、握り潰されたかのような、黒い心。深淵に似たそれは、どう足掻いてもニンゲンとは縁遠いもののはずでした。
 それなのに、外に出してぶつけてくるものは、悪魔の苦手な正の感情。
 こんなにちぐはぐなニンゲンは、見たことがありません。 そもそも、ほんとうに、ニンゲンなのでしょうか。
 拾った瓶が割れていないことに安心したのか、ため息をつくと、メスのニンゲンは急に決心したかのように顔を上げました。一気に悪魔へ近寄って、それだけじゃ足りないとばかりにずいと迫り、あからさまに驚いている悪魔に向かって、噛みつくように言いました。
「ねえ!」
 ぴかぴかに光る黒い目と赤い頬。
 悪魔はあれだけ抱いていた殺意を一瞬忘れて、こう思いました。
「名前は!?」
 うぜェ。


 これはまずい。だいぶまずい。
 は、先ほど転んでしまったことを恥ずかしく思いながら、一つだけある扉を開けて、部屋から出ました。
 自分の想像よりも、うんと体が弱っています。それはもちろん、ずっとこの部屋に閉じこもって――もとい閉じ込められて――いるので、当然と言えば当然でしたが、それにしたって、救急箱一つ持てないようじゃ、看病だってままなりません。
 そうです、看病がしたいのです。もっと言えば、あの悪魔と、仲よくなりたいのです。
 悪魔は一晩経って、ようやく起きたばかりです。
 とても嬉しかったのですが、目を覚ます瞬間を見れなかったことだけが残念でなりません。は一晩中、悪魔を見つめていたのです。ただ、じっと。まさか、たまたま部屋を離れていたタイミングで起きるとは。思わず唇がとがります。
 の部屋は一つだけでしたが、全く出られないというわけではありませんでした。
 部屋を出ると、左側はすぐ壁になっていて、小さな窓から木々の頭が見えます。
 このことから、自分の部屋が高い階層にあることだけわかっていました。
 それから、真正面に扉が一つ。これはお手洗いや、洗面所に繋がっています。
 そして、右側が短い廊下になっていて、その突き当たりに扉がもう一つ。
 こちらは大きな両開きの扉で、いくら叩いても、引っかいて爪が剥がれそうになろうとも、決して開くことはありません。
「痛かったなあ」
 まだぼろぼろの指先を眺めて、呟いてしまって、はっとして首を振りました。こうしている場合ではありません。
 時間になると、廊下には食事を乗せたワゴンが、音もなく現れます。いつ扉が開いているのか、全くわからないさり気なさで、きちんと三食出されるのです。一体、誰が運んでいるのやら。
 今日は、そのワゴンに、二人分の食事が乗っていました。
 その事実に、の顔は、どうしたって笑ってしまいます。
「ご飯、食べられる?」
 ワゴンごと、一人分を部屋へと運びました。ベッドの隣、つまり悪魔のすぐ隣へと。
「……」
 悪魔は何も答えません。
 起きてからずっとだんまりです。
 起き抜けに名前を聞いてしまって、とてつもなく反省したところです。
「えっと……えっと……、置いとくね……?」
 言うなり、は部屋から逃げ出します。はあ、とため息が落ちました。
 廊下にはもう一人分、つまりの食事が、床へと直に置かれていました。さっき自分でやったものです。同じ部屋で食べることは、どうにも躊躇われたのです。
 そうして床に座り込み、食事――主食はパン。まだほんのりとあたたかい、豆と野菜のスープ。蒸した魚とつけあわせ。には見覚えのない果物――をきっと睨んでから、勢いよく食べ始めました。
 食べなくちゃ。
 うんと体が弱っている理由は、自分でもわかっています。
 だって、こんなにへんてこで、くるっていて、どうかんがえてもおかしいちからとせかいによばれてから、ご飯を食べることも、眠ることも、むずかしくなっていましたから。うんと体が弱っているのも、当然と言えば当然でした。
 はじめて、このままではいけないと思えました。(このまま、どうなったっていいと、考えていたのです。)
 だって、看病がしたいのです。
 もっと言えば、あの悪魔と、仲よくなりたいのです。
 いえいえ、まずは名前を聞き出すことから?
 ぐるぐると思考を巡らせながら、は久方ぶりの食事をかきこみました。
 しっかりと噛んで、飲み下し、自分の栄養にするために。
「…………気まずい!!!」
 味は、よくわからなかったけれど。