はじめまして


 がしゃん!
 ――音は、最初に大きな音が一つ、追うように乾いた音が二つ三つ。
 貪っていたパンを喉に詰まらせ、は慌ててスープでどうにか飲み干すと、ほとんど体当たりで扉を開きました。
 音の正体はすぐ知れます。視界の隅で、ワゴンの上に乗せていたほぼ全ての皿が、無残にも床に落ちて割れていました。料理は皿の破片と満遍なく混ざり、もう食べられそうにありません。
「……っ!?」
 はと言うと、何かを喋る前に、何かを思う前に、ドアノブを握って開け放ったまま、ぴたりと動けなくなりました。
 世界が、たちまち赤くなったのです。
 悪魔の傷は、ほとんど塞がっているはずです。シーツも、新しいものに換えたばかりでした。
 なのに、こんなにも血がにおう。
 まるでなみなみと“それ”で注がれたかのように、鼓膜までいっぱいに埋められて、酷い耳鳴りが頭を揺さぶります。
(いき、できない、くるし、い、なんで……っ!?)
 溺れてしまうと開いた唇の舌先すら、その味を感じた気さえしてくるのです。
 背筋を伝うぬるりとした感触が、いよいよほんとうに思えました。
 悪魔がこちらを、刺すように、見ていました。
 ぎらりと、睨まれていました。
 死ね。
 たったそれだけ。
 悪魔がそう、思っただけで。(悪魔がそう、思っているとわかっただけで。)
 ――赤い瞳は、の全てを、握り潰すことが出来るようでした。
「チッ」
 舌打ちと共に、目線をふいと外された途端、の膝は垂直に落ちました。手は掴んだ形のまま強張っていたので、ドアノブに縋りついていた姿のまま、汗――先ほど血と勘違いしたもの――が、背筋だけではなく、額や脇、手足からどっと噴き出て、ずるりと滑ってしまったのです。床と骨のぶつかり合う鈍い音が響きます。
 は、簡単に四つん這いになりました。
「――かはっ……げほっ! げほっ! ぐえっ、うう……!」
 息が吸えるようになって、まず襲ってきたのは強烈な吐き気です。
 食事に手をつけたばかりだったことは幸いでした。腹部を蹴り上げられたにも等しい衝撃と重圧に、詰め込んだパンの欠片と、スープの混じってるであろう胃液が、少しだけ、床を汚します。口元と、服の裾も。
 背中を丸めて、何度も咳き込み、空気がようやく脳と肺に行き届いていきます。それでも体の末端は痺れたようにぎこちなく、ぶるぶるとふるえていました。遅れて気付いた硬質の小さな音は、自分の歯から聴こえて来るようです。寒さでうまく話せない時みたいに、かちかちといつまでも鳴っています。呼吸は上手くできず、全力で走った後のように、ぜえぜえと喉が悲鳴をあげていました。
 こわい、と。
 悪魔へ恐怖を覚えるには、じゅうぶんすぎる出来事のはずでした。現に、体はこんなにも怯えています。
 なんせ、悪魔から剥き出しの殺意を受けて、殺されかけたのですから!
(せっかく、食べたのになあ)
 ですが、頭に浮かんだことは、こんなこと。
 汚してしまった床を見て、何か拭くものあったっけ、なんて、のん気に考えていると知れたら、今度こそ殺されてしまうかもしれません。悪魔には自分なんか、容易く殺すことが出来るんでしょう。殺してやると、首を絞められた最初を思い出しました。
 それもいいなあ、なんて。
 だから、顔をあげて――。

「……テメェ」
 悪魔は、思わず声に出していました。
 そもそも悪魔は、酷くいらいらしていて、何もかもが気に喰わなくて、忌々しい力と世界を呪いながら、誰でもどれでもなんでもいいから、とにかくぶち殺したかったのですから、甲斐甲斐しく餌を運ばれるなど、以ての外だったのです。
 出鼻は、完全にくじかれてしまったのですけれど。
 この寒々しい、底知れない黒い心のせいで。
 どうせ大方、手酷い裏切りにあったとか、老い先が短いだとか、一家全員皆殺しにされたとか、一家全員皆殺しにしたとか、あるいはその全部とか。そんな在り来たりな理由しか思いつきませんでしたが、そんなところでしょう、ニンゲンが絶望している理由としては。(それにしては禍々しい心でしたが。)
 でも、殺気だけで死にかけるなんて、やっぱりただのニンゲンでしかありえません。途中で止めたのはもちろん、簡単に死なれても面白くないからです。
 どうにも興をそがれてしまったことが、不快感をつのらせていました。悪魔ともあろうものが、殺意を一瞬忘れるなんて!
 ああ、さっき殺しときゃよかった。
 そう、這いつくばるメスのニンゲンに、一瞥をくれてやった時でした。
 まさか。
 目が、合うとは。
 悪魔は、思ってもいなかったのです。
 それどころか。
 ニンゲンは顔をあげて――、
 笑っていました。
 だから悪魔は、思わず声に出していました。
「頭、可笑しいんじゃねェの?」
 ――話しかけるつもりなんて、なかったはずなのに。
 悪魔の言葉に眉をひそめて、視線をあちこちさ迷わせたあとに、あろうことか、ニンゲンはこう答えました。
「……そう、かも……?」
 一人と一匹の会話は、こうしてはじめて、成立したのです。