嵐のあと、歪む肉
時間は、少し遡ります。
エクス――この施設の長です――は、まずどうすべきか、考えました。考えながら、その部屋へと向かいました。自分以外はほとんど知らない、秘密の小部屋です。その中にいる彼女のことも秘密です。強力な結界を張っているので、まず何が起こっても、ほとんどの人間が感知することも出来ないでしょう。
ですから、先ほど感じた魔力の奔流も、彼だけが知れたはずでした。
どうしようかな。
朝食のお献立に悩むみたいに、時折窓の外の景色を眺めつつ、エクスは彼女の処分について考えます。彼女を保護してから、一月が経っていました。
保護と言えば聞こえはいいです。実質は問答無用の拘束です。うら若い乙女を部屋に押し込み、衣食住だけ与え続けるなんて、健康的な人間のやることではありません。
それでもエクスはやりました。己の権限を全て用いて、今も彼女を閉じ込めています。
理由は、もちろん秘密です。
さて、長い長い廊下を渡り、ようやく扉の前へとたどり着きました。建物自体、彼の許可がなければ立ち入れない所でしたが、それにしたって静か過ぎます。変だなあ。軽く首を傾げて、鍵を開け、さらに短い廊下を歩いて、また扉を開けました。
そう、ここが、彼女の部屋です。
「わあ」
ずいぶん、酷い有様でした。本棚の中身が全て飛び出て落ちています。棚を壁に固定していなければ、倒れていたことでしょう。可愛らしい花を咲かせていたはずの植木鉢は、無残にもひっくり返り、土がこぼれていました。床ではカップが派手に割れて、破片が飛び散っています。それから血まみれの悪魔が一匹、ベッドに横たわっていました。
彼女は、荒れ果てた部屋の真ん中の、悪魔が横たわるベッドの隣、床にぺたりと座り込み、ちょうどそうすれば悪魔の顔が見えるようで、じっと視線をそらすことなく、黙って悪魔を見つめていました。
狭い部屋ですから、数歩で真後ろに来れたというのに、彼女はまだ気付きません。黙って悪魔を見つめていました。
エクスは、少しだけ、躊躇います。後悔も、しました。
――どうしてあの時、声をかけてしまったのだろう。
それでも彼は言いました。
「」
それは彼女の名前です。
この世界に縛られてしまった、彼女の名前です。
呼んでやると、ゆっくりこちらを振り向きました。そうすると、彼女の細い首に、首輪がかけてありるのがよおくわかります。自分が嵌めてやったものです。彼女が彼女でいられるように。
振り向いたは、ゆっくりと表情を変えていきました。ようやく彼の存在に気付いたこと、すぐ後ろにいたこと、戸惑いもきっとあったに違いありません、目と口が大きく開かれました。
にも関わらず、彼女の行動は、こちらが驚くほど素早いものでした。
すぐさまエクスの足へと、縋りついたのです。
「おねがい、します」
どうしようかな。
治癒の術をかけ終えると、光は元の世界へ戻っていきました。
ねがいごとを叶えてやったので、もほうっと息をついて、目を細めています。ふにゃり、眉も口も崩された、情けない笑顔です。心の底から安堵している様子でした。
肩をすくめてしまいたくなったのは、何故でしょう。笑っているのを初めて見たからでしょうか。彼女のこれからの行く末を、まだ、悩んでいるからでしょうか。
「ありがとう、ございました。あと、あの、」
「……うん。今度、新しい植木鉢を持ってこようか」
目線の先、緑の茎とふくらんだ蕾は、折れても散ってもいません。ひっくり返って、土をかぶったことが幸いしたようでした。部屋と鉢の有様からすれば、この花の一株だけ無事だったことが奇跡のように思えます。
彼女はまた、お礼と一緒にエクスへと頭を下げました。
「何か他に、欲しいものはあるかい」
「えっと……じゃあ、救急箱とか」
「ああ、それならすぐ持ってこられるから。鉢は、少し待ってて」
「わかりました」
ほんとうは、可笑しな会話でした。閉じ込めている張本人と、閉じ込められている張本人が、ふつうに会話しているなんて。それこそ最初の頃だけです、彼女が逃げようとしたのも、扉を無茶苦茶に叩いたり、爪を立てて引っかいたのも。すぐに彼女はすべてを諦めてしまったから。そうさせてしまった原因は、もちろんエクスにもありましたが――、
まだ、彼女をこの部屋から出すわけには、いかなかったのです。
「召喚術って、すごいんですね」
こちらを見ないまま、ぽつんとが呟きます。しゃがみ込み、土まみれになった花を指先で撫でていました。
悪魔の傷を塞ぎ、癒させたことを言っているのでしょう。先ほどの光は、まだ目を瞑り眠り続ける悪魔と同郷の、天使のものでした。
石と儀式を用い、異界の門を開き、真の名を唱え、誓約を結び、使役する力。
彼女をこの世界に――リィンバウムに連れてきた力。
ぐにゃり。
空気が歪みました。
どういうことかと言うと、彼女を中心にして、景色が潰れたのです。乾いていない油絵を、筆でかき混ぜてしまったように。
彼女の心に呼応して、彼女の肉が歪みます。ああ、やれやれ、なんて嘆息する暇もありません。
「」
仕方なく、名を呼んでやりました。
この世界に縛られてしまった、彼女の名前です。
歪みはぴたりと治まりました。
「さっきも言ったろう、あとの一つはきみ次第だ」
足に縋りつき、床に額をこすりつけ、望んだのは彼女です。
この悪魔を、連れてかないで。
この悪魔を、たすけてほしい。
この悪魔を、還してあげたい。
――自分が叶わないことならば。
「その悪魔を喚んだのは、きみなんだから」
望み、願い、それは彼女を明日へと導く糧となる。
にっこり笑ってやれば、黒い目に生気が戻ります。立ち上がり、しゃんと背筋すら伸ばします。自分が歪んだことなんて、ちっとも気付いていない様子です。ああ、やれやれ。
彼女が彼女でいられるならば、エクスは彼女を、ここから出してやれるのです。
「わたし、がんばります!」
悪魔に複雑に絡み合う誓約は、ひとまず黙っていることにしました。
だって。儀式も真の名も知る由もない、ましてや喚ばれてきた立場である彼女が、悪魔を喚んだことを考えれば――、
もしかすると。
もしかすれば。
一度退室して、救急箱と換えのシーツ――なんせ、ベッドの上は血まみれでしたから――を届けてやれば、はまた「ありがとうございます」と、ふにゃり、笑いました。笑顔の目の下には、色濃く隈があり、頬もすっかりこけていて、肌はぱさついています。眠れていないことも、ご飯を食べていないことも、エクスは知っていましたが、彼にはどうすることができないこともまた、知っていました。そのの顔が、今は嬉しそうに笑っています。この調子ならご飯もきっと、食べられるようになるかもしれません。
そこに横たわる、悪魔のおかげで。
「それじゃあ、またね」
「はい、また。……あの、エクス……さん、」
扉を開ける手を途中で止めました。躊躇いがちに呼びかけられたので、振り返りながら「エクスでいいよ」そう言い添えます。彼女は明らかに年下に見えるエクスを、決して“年相応”に扱いません。どこかでわかっているのでしょう。そもそも普通の子供は人間一人を軟禁なんて出来ませんし、軟禁した人間を子供扱いなんて出来ないでしょうけど。
「わたしは、いつ、ここから、」
出られるんですか。
言葉尻は消え入りそうな声でした。立ち尽くして、床を見つめて、服の裾をぎゅうと握り締めて、エクスの方をついと見ないまま、はぽつりと呟きます。
「……まだだよ」
先ほど見たとおり、彼女はとても――不安定です。無自覚というのもたちが悪い。
まるでの身体が、リィンバウムに存在することを拒んでいるかのようでした。
いいえ、きっと、そうなのでしょう。
彼女は望まずにこの世界へと連れてこられたのですから。
「……、……はい、わかりました」
返事を聞き届けてから、エクスは扉を閉めました。
最後に見たの顔は――色のない、いつもの無表情。
誰もいない廊下を歩き、部屋からじゅうぶんに距離をとって、ややしてから、
「パッフェル」
呼びました。
「はいは〜い」
朗らかな声と共に、パッフェルは音もなく現れます。それから、「お呼びでしょうか」とエクスの目の前で膝をつきました。彼女にだけ、この建物に立ち入る許可を出しています。だからエクスとパッフェル、(と、彼女が喚んだ悪魔)だけが、この離れにいられる全員です。
「これからは、食事を二人分出してあげてほしいんだ」
の身のまわりの世話――食事を運ぶことはもちろん、汚れ物を回収して洗濯、ごみが溜まったら廃棄するなど――は、すべて彼女に任せておりました。パッフェルはエクスのお抱えエージェントですので、に気づかれないうちにお給仕するのも朝飯前です。「様の眠りが浅いので、なかなか隙を窺うのが難しいんですけどねえ」なんてパッフェルがぼやきますが、エクスは「がんばってね」いつも笑って聞き流していました。
「でもエクス様、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「なにかな?」
跪いたまま、パッフェルが見上げて訊ねてきます。
「どうして様の部屋に、あんなものを?」
ほんとう、置いてくるのたいへんだったんですよう? 様ってほっとんど眠らないんですから!
――身のまわりの世話以外に、パッフェルに頼んだことが一つだけありました。ごく最近依頼した仕事です。
それは、の部屋の隅に、サモナイト石を置いてくること。
結果は、思った以上でしたが。
「ボクにも、よくわからないんだけどね。しいて言えば、」
機界ロレイラル。鬼妖界シルターン。霊界サプレス。幻獣界メイトルパ。
リィンバウムを取り巻く四つの異世界。
おそらくは、そのどこでもない世界から、喚ばれたはずのから、一番強く感じられる魔力。
それが――紫。
霊界サプレスのサモナイト石を、届けた理由。
「彼女が彼女でいられるように、かな」