心臓を呼ぶ
あれは、満月の夜のことでした。
風もなく、雲もなく、煌々と魔力に満ち満ちていて、ちょうどその白く大きな影が、頭上に輝いた時分の出来事です。
一言で言えば、肉塊。
どこからともなく現れたそれは、ぶくぶくと太っておりました。頭もなく、体もなく、手足もなく、表面はつるりと滑らかです。見上げるほど大きな肉塊でした。たとえば、木こりが最低限の暮らしをするために建てた、山小屋ほどの大きさです。色は赤黒く、表面には血管が走り、とくり、とくりと確かに脈動していたので、人によっては巨大な心臓が動いているようにも見えたでしょう。
また、心臓はとても不安定でした。輪郭はおぼろげで、まるで霧がかったように揺らめいています。脈打つ度に一瞬、向こうの景色が透けて見えました。とくり、とくり、どくん、どくん。そう生きていることを主張するくせに、今にも消えてしまいそうな、矛盾をはらんだ存在でした。あやふやで、いい加減で、まるでたちの悪い冗談みたいな。
だからでしょうか。
肉塊は、肉を求めていました。確固たる、この世界の肉を。
「総員退避! 退避! ――総帥がお出でになられた! これより人払いを行う!」
反対の声も多くありましたが、エクスは最高権力者でしたので、押し切らせてもらいました。それほどに、危険な事態と物体だったのです。
もう二人ほど、飲み込まれていました。
どこぞの旅の者が肉塊に取り込まれたという、目撃証言が上がっています。近辺ではまだ二人で済んでいますが――どうやら取り込むほどに大きくなっているようなので――今まで何人、何十人と犠牲になったことか。
肉塊の出現は一刻前。街の只中でなかったことだけ幸いでした。迅速に部隊を結成し、殲滅作業が行われましたが、歯が立たなかったので、エクスが出ざるを得ませんでした。これ以上時間をかければ、こちらにも犠牲が出るのは明白です。人払いをしたのも、広範囲・高威力の召喚術を、遠慮容赦なく叩き込むためでした。
ぐにゃり。
空気が歪みました。
どういうことかと言うと、肉塊を中心にして、景色が潰れたのです。乾いていない油絵を、筆でかき混ぜてしまったように。
すると――音もなく、急に移動するのです。元いた場所から、唐突に、離れた場所へ。その距離はまちまちで、しかも動きはかなり不規則でしたので、予測するのも難しい。今は視界に収まる範囲で済んでいましたが、エクスの見立てによれば、一瞬で大陸を横断することも出来そうです。そんな空間転移を繰り返し、肉塊は遠く離れたところから、ここまで這ってきたようなのです。
すっかり人気のなくなった焼け野原――先に送った部隊の攻防の後です――で、エクスは一人、それと対峙します。
近くの港街には、“うち”と同じような派閥があったのですが、どうやら今回はだんまりを決め込んでいるようでした。距離的には王都と港町の、ちょうど真ん中くらいでしたのに。(ほんの少し、王都寄りではありましたが。)
「いいけどね」
エクスはかすかに笑い、手をかざしました。
なにしろ、ひどい魔力の放ちようでした。
召喚術師であるならば、すぐすぐ気づいてしまうほど。
ああ、やれやれ。
だからエクスは、渋々と動くことにしたのです。蒼の派閥――召喚術師の組織――の一総帥として。
一思いに殺してやろう。
腕を伸ばすように、肉を伸ばして。
人の気配を頼りに、近づいては、取り込む。
だってどう考えてもこんな“召喚獣”は生かしてはおけません。今ここで、エクスが殺しておかなければ、被害はどんどん拡大し、また、肉もどんどん肥大することでしょう。
術を失敗したのでしょうか? これを召喚した時に、何が起こったかまでは読めません。最初から術式が間違っていたか。真名を呼べなかったか。釣り合わない力を喚んでしまったか。
けれど、考えても仕方のないことです。
一思いに殺してやろう、
目を閉じて、手をかざし、術を放つその時でした。
手繰り寄せていた魔力と一緒に、それは、突然頭に浮かんできました。
目を開ければ、肉の腕が、まさにエクスを抱きしめようとしています。
「……?」
それが肉塊の名前です。
この世界に喚ばれてしまった、肉塊の名前です。
――どくり、どくり。とくん、とくん。
そうして“彼女”は、縛られてしまったのです。
この世界に。
まさか羊水じゃないでしょう。
けれどどうしたってそれは、生まれたての胎児に似ています。
髪も肌も、全身がびっしょりと濡れていました。差異と言えば、胎児にしては育ちすぎているところでしょうか。年は、十代の中頃。ふつうの、おんなのこに見えました。
みるみるうちに姿を変えて。
肉は、人になりました。
元に戻ったとも言えましょう。
ただの肉塊だったなら、名がある必要もありません。
「まいったなあ」
思わず口に出た言葉に、横たわる彼女がゆっくりと目を開けました。おそらく意識はまだないでしょう。なんと言っても、さっきまで肉塊――人間、あるいはそれ以外の集合体――だったのですから、彼女が彼女を取り戻すには、かなりの時間を要するだろうと判断できました。
ですが、彼は手を伸ばすことにしたのです。傍らに跪き、笑いかけてやりました。
すると、どうでしょう。危なげな動きで、彼女もまた手を伸ばしてきました。
「おいで、」
殺すはずの手を取って。
呼ぶはずのなかった名を呼んで。
「――ここは! ここは、どこ?! 出して! ここから出して!!」
「帰れない」
「……どうして?」
「帰して」
「帰して! 帰して! 帰して! 帰して! おねがい! ここから出して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して! 帰して!」
「そうですか」
「そんな、へんてこで、くるっていて、どうかんがえてもおかしい、ちからとせかいのせいで、わたしは、よばれたんですか」
「そう、ですか」
「へえ」
「……へえ」
「あ、じが、」
「味が、しないんです」
「味はしないし、おなかもずっと、すかなくて。寝なくても、平気で」
「目もずっと、変なんです。いろが、なくって。しろくろで」
「わたしは、どうなってるんですか、わたしは……ちゃんと……わたしは……」
「こんにちは、エクスさん。今日はいい天気ですね」
「あの、わたし、どうして出られないんですか? まだ、教えてもらえないんですか?」
「そうですか。そう、ですよね」
「あ、あの、えっと、欲しいものはとくにないです」
「はい、それじゃあまた」
――彼女を保護してから、一月が経ちました。保護と言えば聞こえはいいです。実質は問答無用の拘束です。うら若い乙女を部屋に押し込み、衣食住だけ与え続けるなんて、健康的な人間のやることではありません。
それでもエクスはやりました。己の権限を全て用いて、今も彼女を閉じ込めています。
理由は、秘密です。には、まだ。
彼女の存在が漏れてしまわぬよう、結界を張った離れ。
肉が歪んでしまわぬよう、嵌めてやった首輪。
それでも足りない、まだ足りない。
荒れ狂い、彼女の中でうねりを上げ、いつでも破裂しそうに満ち満ちている魔力。少しでもそれを外に吐き出してしまえば、あるいは。そう、エクスは考えていたのです。彼女が彼女でいるために。名を呼んでしまった、彼女のために。
一思いに殺してやれなかった、彼女のために。
紫の小さな石は、それに応えてくれました。部屋の一つや二つ、もしくは離れの建物ごと、損壊するだろうと思っていた彼にとって、ほんとうに予想外の結果でしたが。
ちょうどいい大きさのやつ、あったかなあ。のん気に思い浮かべながら、エクスは廊下を歩きます。新しく買った方が早そうです。パッフェルはもう、仕事に戻っていました。彼女におつかいを頼むことも多かったですが、の世話を頼んでいることですし、今回は自分で買いに行こうと決めました。
その植木鉢を持っていく頃には、目を覚ましているでしょうか?
あの小さな部屋で、死にかけていた悪魔と、肉塊だった人間は。
いったい、どんな会話をするんでしょう。