いろとおとがあるせかい
「頭、可笑しいんじゃねェの?」
「……そう、かも……?」
――気色悪。
悪魔の実直な感想は、一言に尽きました。
はてさて、先程自分の殺気だけでいとも容易く死にかけた脆弱なニンゲンはというと。
悪魔が投げた食事と食器を片付け始め、今は、自分で床に吐き散らした胃液を、血まみれのシーツ――十中八九悪魔の血です――で拭き取りながら、歯を食い縛って、なんと言えばいいのか、そう、にやけていました。にやけてしまうのを、必死に抑えようとして、出来ていない、そんな不細工な顔でした。
気色悪い以外の言葉が出てくるわけがありません。
悪魔の彼には、目の前で這い蹲っているメスのニンゲンが、「正の感情」で満ち満ちていることが、げんなりするくらい、わかってしまいました。
彼は悪魔なので、憎悪、嫉妬、殺意、侮蔑――など、悪魔が好んで糧とする「負の感情」ならば、このように機微が知れます。しかし、こと「正の感情」については、当然そそられませんし、興味もありませんから、全くの未知数なのです。
ですので。
今ニンゲンが抱いているものが「負の感情」ではなく、「何の種類かはわからないが、明らかに正の感情」であり。
おそらくそれが「先程ニンゲンを殺しかけた悪魔の自分に向けられている」ことだけが、悪魔である彼には知れたのです。
気色悪ィ。
何が、このメスのニンゲンを、上機嫌にさせているのか。まさか殺されかけたことが、ウレシイのか、タノシイのか?
考えても、わかるはずがありませんし、考える程、不気味です。
殺意は、とっくのとうの昔に萎えていました。だって、もちろん悪魔はやさしくなんてありません。
望まれて殺してやるなんて、まっぴらごめんでしたから。
――ぺしん。ぺしん。
乾いた音は断続的です。いつもほとんど物音のしない、それどころか立てないようにしている静かな部屋でしたから、の耳には、新鮮に響きます。
色だけではなく、悪魔は音までくれたのです!
自然と頬がゆるみましたが、理由は、それだけではありませんでした。
音の出どころは、悪魔の尻尾。鞭のようにしなやかに、実に不機嫌そうに、悪魔はあちこちを――ベッドの上であぐらをかいているので、机や近くの壁を――叩いているのでした。尻尾は常に上下左右に動き、苛立ちを音にしています。
「(かわいい……!!)」
――むしろ、笑顔になってしまう大半の理由がこれでした。
悪魔の尻尾がこんなに自由に動くなんて。
まるで猫や犬のように、こんなにも感情をのせるなんて!
は、必死に笑みを噛み殺します。唇をきゅっと真一文字に結び、必要とあらば口の内側の頬肉を文字通り噛んで。
だって、そんな、かわいいなんて。
思っていることがわかったら、きっと悪魔は嫌でしょうから。
ゴミと化した“施し”と、自分の吐瀉物を片付けながら、の顔は――やっぱり、笑ってしまうのでした。
色があること、音もあること、一人じゃないこと、知らないことを知ったこと!
なにもかも、なにもかも、ひさしぶり。
まるで生まれて初めて、体中に血が巡ったみたい。どくん、どくんと、今まで止まっていた心臓が、動き出したように思えました。
ぜんぶ、ぜんぶ!
――ここに在る、悪魔がくれた!
「……ッだァ! さっきからなァに笑ってやがんだテメェ! 気色悪ィ!」
「わあっ!? えっ!? うん!? ごめん!?」
バレてる!?
「俺様を喚びつけといて、随分ナめた真似してくれてるじゃねェか? あァ?」
「ナめ?! よ、喚び……ちが、あのえっと!! わってっ、まっ、ごみゃ――!?」
悪魔は、ベッドの上にふんぞり返り、枕を背もたれにして、足をくむ、なんとも偉そうな姿です。
は、床の上で座り込み、悪魔の言葉にしどろもどろ、舌を噛む、なんとも情けない姿です。
(なんせ独り言ばかりの日々でしたから、上手く舌が回らないのです。)
「……いっひゃい……」
「ダッセェ」
でも、どうやら悪魔は――今なら、話をしてくれるようでした。
先程は、もちろん殺すつもりだったんでしょう。殺されかけたには、よおく、身に染みてわかっていました。この悪魔は、いつでも、今でも、すぐにでも、自分を殺すことが出来るのです。
けれど彼と、目が合った。
そして彼は、言葉をくれた。
いつでも、今でも、すぐにでも、殺すことが出来るのに。
ああ。
なんて、なんて、なんて!
なんて、しあわせなことだろう!
はぴかぴかに目と頬を光らせて、笑いながら――
「あの、ね! あのね! わたし、ちょっと前くらいからこの部屋に監禁? 軟禁? あれっ監禁と軟禁どう違うんだっけ、とにかくね、閉じ込められてるんだけどっ、あっ理由は教えてもらえてなくって! なんか悪いことしたのかな!? わかんないんだけどとにかく閉じ込められててね!? えっとこの世界、なにバウムだっけ……? なんか、わたしの世界から、このなんとかバウムに呼ばれたみたいなんだよね、いつ? なんで?? って感じだし、起きた時からずっとこの部屋で、泣いても叫んでも出してもらえないし、理由も教えてもらえないし、なんかね、目も、ずっと、変で、カーテンも天井も床も壁もベッドも椅子も机も植木鉢もみんなみいんなしろくって、ね、毎日毎日毎日毎日毎日毎日気が狂いそうで、そう、うん、頭可笑しいんじゃねェかって、そうなんだよ、そうみたい、でも、でも、でも、石が、石だけが、色がついて、て、うれしくって、うれ、し、くて、」
――言いました。
笑いながら、途中から、泣きながら。ぼたぼたと、みっともなく両の目からこぼれる涙が、またしても床を汚していきます。
久方ぶりに、たくさん喋っているうち、は気づいてしまいました。“一人きり”じゃないからと、浮かれ過ぎていたことに。
たすけてほしい。
連れてかないで。
看病がしたい。
仲よくなりたい。
全部、自分のためでした。 決して、悪魔のためではなく。 さみしかった、自分のために。
――なんて、わがままなんだろう。
は気づいてしまったのです。
こんなにへんてこで、くるっていて、どうかんがえてもおかしいちからとせかいなのに。
おなじちからで、おなじせかいに。
わたしは。
わたしは。
わたしは。
この悪魔を。