まだやめたくない


 急いだつもりはなかったが、早足になっていたのかもしれない。サイジェントの街には、本格的な夜が訪れる前にたどり着けた。
 ここにいるとわかる。
 己の肉と心臓が呼んでいる。
 呼ばれるままに歩いて行くと、ちょうどよく城壁が崩れていた箇所があった。そこからお邪魔させてもらえば、着込んだボロの服がよく馴染むスラム街が広がっている。さすが自分に地理や情勢を教えてくれた師匠が準備してくれた旅支度、間違いがない。
 マントに付いたフードを浅く被り直し、堂々と歩いてしまえば誰もを注視することはなかった。
「……で、どうしよっか」
『知るかよ』
「だよねぇ!!」
『…………』
 律儀に返してくれる声に喜んでしまうと、それきり悪魔は黙ってしまった。仕方なく辺りを散策しながら、二つの歪みについて考える。
 一つは、時間の歪み。
 小高い丘の公園、夕暮れ時、まさに先輩が召喚される刹那、手を伸ばしてしまった、声をかけてしまった。
 召喚対象は紛れもなく先輩であり、おそらく「正しい」召喚日時は今日だ。
 けれどはリィンバウムで既に二年の時を過ごしている。
 ――過去に飛ばされている?
 大失敗で終わっている召喚の儀式に、さらに誤って飛び込んだ影響だろうか。
 過去と言えば。
 エクス曰く、バルレルは過去から召喚されているらしい。
 過去からの二重誓約ギャミング
 二重誓約とは、誓約済の召喚獣に、さらに新たな誓約をかけてしまうこと。稀有なケースであり、召喚術が暴走し、元々かけられていた誓約の力が弱まっていた場合などに起きうる。
 もっとも、以前の誓約は既に解けており、エクスはそれも自分がやったのだと言った。覚えはない。召喚術を学んだ結果、初めての召喚と誓約がどれだけ無茶苦茶だったかを思い知った。
 紛れもなく力は暴走していたし、かけられていた誓約の力が弱まった理由も、今ではなんとなくわかる。
 血塗れの、ぽっかりと空いた額。
 思い出した途端に漲った殺意をまき散らさないよう、少しだけ奥歯を噛む。
 第三の眼。
 膨大な魔力の塊であるそれを奪われた――奪った瞬間、誓約の力は緩んだはずだ。極度に弱体化した悪魔を、それまでと同じ力で縛り付けることはまずないだろう。
 因果関係は不明にしても、過去に飛ばされた女が、過去から悪魔を喚んだ。
(ってことは、体だけじゃなくて時間も変になる可能性がある? やだなぁ……覚悟と準備しとかないと……)
 そしていつどこにどんな時代に飛ばされても死んでいても生きていても殺されていてもバルレルにひどいことをした召喚師はどうにかして絶対に殺そう、は決意を新たにした。
 もう一つは、肉の歪み。
 今日、のたうち回るように肉が歪んだのは、先輩が召喚された「瞬間」だったはずだ。来た、と思った。肉を呼ぶ、何かが来たと。
 何か、は先輩だった。けれど、もう一人だけ思い当たる。
 あの「瞬間」、もしかしたら。
 過去に飛ばされる前の自分が、いたのかもしれない。
(だからって別にぼこぼこしなくてもよくない!? 普通に気持ち悪いし)
 自分と共鳴した? 同時に存在してしまった不具合エラー? 召喚の際、先輩と何か結び付きが出来てしまった?
 何故歪むかまでは、わからない。
 ――でも、もしかして。
「……」
 ぼこり。
 自分の腕から、誰かの腕が伸びる気配。
 すぐ身を翻し、物陰に隠れた。歪む肉はセンサーとして優秀らしい。
 気が付けば頭上に月が昇っていた。白んだ光が降りしきる、そうすると内臓がすうすうと空洞になる心地がする。お前はここではない場所から来たのだと、指差しをされている気になって、おそらくは胃が納まっているであろう腹をは撫でた。
 うさぎのいない大きな月。ここが異世界だと理解させられた夜空の異物。もう慣れたと思っていたが、まだまだ月見は出来そうにない。
 どうやら窓から眺めてみるのとこうして外で拝むのとでは、また違って感じるらしい。
(新しい気付きを得たなあ)
 なんて思いながら、目の前で始まった斬り合いと殴り合いを見ていた。
 グループ同士の喧嘩だろうか。スラム街の治安を考えれば珍しくもない。が隠れた位置はちょうど真ん中だったようで、右と左でグループが分けられた。
 向かって左側は、いかにもゴロツキと言った風体の人間しかいない。だが、リーダー格の男はひと目でわかった。一番自信ありげに笑い、一際目立つ。色素が抜け落ちたような肌をした、白髪赤眼の男。
 向かって右側は、謎の組み合わせだった。チンピラ風の少年もいれば、大工でもやっていそうなガタイのいい男、鎧を身に纏った騎士風の男もいる。それから、学生服の少年。
 二年ぶりに見た高校の制服が、スラム街の抗争に交ざっている。
 おぼつかない足取りで、錆びた剣を振るっている。
 裏路地に放置された木箱や樽に身を潜め、息を殺して、ただ見ていた。
 自分の体を抱きしめて、マントの下で暴れる肉を押さえつける。
 腕、肩、腹、背、脚、至るところが、先輩の動く先へ、先へ、追い縋るように蠢いて形を変えようとしている。
 ――もしかして、もしかすると。
(……取り込みたい、とか?)
 なるほど!
 そう頷いて、頷いてから、いよいよこれはまずいと苦笑いを浮かべた。ぞっとする話。でも、怖くない。感覚が麻痺している、麻痺しているとわかっているだけ、よかった。
 だって彼は、たまに顔を合わせることもある近所のお兄さんで、確かバスケ部の部長で、クラスメイトにも人気がある先輩で、唯一面識のある元の世界の知人で、フルネームだって知っている。
 新堂ハヤト先輩。
 逢えて、うれしい。
 これはほんとう。
 先輩を取り込んで、体が治ったら、うれしいな。
 これも、ほんとう。
 最悪な本音だった。
「はぁ………………」
 小さく細く、ため息を吐いた。幸いにして剣撃の音や罵声が響き、身を隠しているの声は誰にも届きそうにない。
 一度だけきつく目を閉じ、決めた。
 その選択をしてはいけない。
 胸元に手をあてる。首飾りから下げたサモナイト石、バルレルの名が刻まれた紫の石を、服の上からぐっと強く握りしめるように。
 悪魔が自分を人間と呼んでくれるなら、そう在りたいと願う。
 この体はきっともう人間とは言えないけれど、せめて、心くらいは。
 彼に人として扱われて喜ぶ心を、信じたかった。
「ありがとうバルレル」
『は? 意味わかんねェ』
 だよねえ。
 フードの下で破顔すると、また息を殺してじっと戦いの行く末を見守る。
 エクスが自分をここに送り出した理由は、「それをなんとかしておいで」だと、は思う。にしてもこんな爆弾を抱えた体のままは嫌だった。
(だって、気持ち悪いし!)
 原因の追求、そして解決。
 それを終えるまで派閥には戻れない。
 爛々と光るの瞳が、先輩の――ハヤトの放つ光を、捉えた。