年下の先輩


『糞ッ、天使臭えったらありゃしねェぜふざけやがって!! どうせ喚ぶならもっとマシなの喚べねえのか?! オイ、聞いてんのかニンゲン!!』
「うん、ありがとう、バルレル」
『耳腐ってんのかテメェ?』
 相変わらず話が通じない。実は誓約の力もこのニンゲン同様に狂っていて、コイツの耳に届く間に自分の言葉がねじ曲げられて伝わっているのかと、何度も思う程だった。悪魔にはわかってしまう。末恐ろしいことに、ほんとうに「ありがとう」と感じ入っていることが。何故そこで感情が「正」に転じるのか。何故、さっきまでの「負」が風に流れて消えるのか。
 悪魔ともあろう者が、また己のあずかり知らないところで、ニンゲンなんかをご機嫌にさせてしまった。そう考えれば同族を喚ばれるよりはマシだったか? しかし界を隔てても漂ってくる天使の臭いは醜悪で、割に合わねえ、と悪魔は吐き捨てた。

 薄々とは気付いてたけど、こう露骨だと、ちょっとショックだなぁ。空の上、竜の背でため息をつく。少しだけ凹むにしては、シチュエーションが仰々しい。吐いた息は霧散してはるか後方に置き去りにされていく。
 はやわやわと、淡く光る膜に包まれていた。天使の羽と同じ色。それらが強風と加速度の圧から護ってくれている――いや、いいや。は霊竜に名を付けない。きちんと誓約を交わさない。完全ではない半端な加護が、そこまで機能してくれるだろうか――いや、いいや。たとえ加護があっても、耐えていい速度ではない。耐えていい高度ではない。人の身ならば。とっくに、限界を超えていた。
 定義ですら人間ではないこの肉は、物理的にも、人間とは既に言えない。そもそも普通、あんな風には歪まない。
 大きな、赤ん坊のようだったよ。そう聞かされた。喚び出されて自我もなく、不安定な魔力の塊が、一体何を求めたか。
 ぼこ、ぼこ、ぼこりと、内側から飛び出てきたあの形は、誰かの手や足だった。
 ……何人、この中にいるんだろう?
 わたしは、なんなんだろう?
 思考を巡らせて、やっぱり少し凹んでしまう。肉だけじゃなくて、心も離れていく。
 怖い、は、なんだかもう遠かった。
『糞ッ、天使臭えったらありゃしねェぜふざけやがって!!』
 胸元から悪魔の声がする。もう随分前に、なくしたくないから、とお願いしたら、エクスは銀の鎖の首飾りを持ってきてくれた。それからずっと身に付けていて、いつも服の下に隠している。
『どうせ喚ぶならもっとマシなの喚べねえのか?!』
 胸元から悪魔の声がする。ペンダントトップは、小さな楕円の銀の籠。真ん中で開き、ちょうど収めることが出来た。心臓の位置で、いつも石を捕まえている。
『オイ、聞いてんのかニンゲン!!』
 胸元から悪魔の声がする。
 自分を、人間と呼ぶ悪魔の声。
「……うん、ありがとう、バルレル」
『耳腐ってんのかテメェ?』
 怖いが遠くても、うれしいがわかる。
 涙が滲んで、それがまたうれしくて、は笑った。


 持てる魔力を全て推進力に変えれば、呆気なく目的地に到着する。快速召喚船――召喚獣に引かせた船――ですらこんなに早くはないだろう。帰りは船で、と思っていたは、当たり前に召喚獣を労働力として換算している自分に気付いて唇を噛んだ。いっそ歩いて帰ってやるかな。
 今支度を始めたら夕飯にはちょうどいい、そんな時分になっている。日が傾いていく。ゆらめくオレンジが沈んでいく。降りる場所を探していたは、思わず目を奪われていた。
 幾重にも染められた空が、昔からすきだった。半熟たまごの太陽が、燃え尽きる前にたくさんの色を散りばめる。バルレルを喚んでしまった時も、こんな風にきれいだった。
 いつか臨んだ夕焼けの端、目覚めはじめた夜の色。
 いつか。
 ――そうだ、あの時。
 一番星を見つけるみたいに、記憶の欠片が頭の中でわずかに光る。
「ありがとう。……ごめんね」
 降ろしてもらってお礼を告げた。ぱきん、と涼やかな音を立て、サモナイト石が砕け散る。輪郭がぼやけていき、やがてしゅるりと消えていく。無事に元の世界に還った竜を見届けて、はほっと息をついた。
 本来なら召喚獣に名前を付け、誓約の儀式を行えば、石は消耗品にはならない。むしろ貴重なサモナイト石を消費しないが為にも、召喚師は誓約を執り行い、以後その力を自由に使用する。まっぴらごめんだった。
 離れで一年、派閥で一年。丸二年で、召喚術を学んできた。笑ってしまったのは、方法さえ知っていれば、誰でも使えるということ。召喚師は隠しているが、誓約済の石があれば、召喚師でなくても使えてしまう。そのうちバラしてやろうかと思う。神秘から引き摺りおろして、彼彼女らが大事に大事に隠匿しているものに泥をかけて汚してやりたい。でも、誰でも召喚術が使える世界だなんて地獄だな、とも思った。
 ぽっかりと穿たれた大地を眺めながら、はそんな風に考えていた。
 黄色い荒野を大きく抉るように、穴が空いている。砕けた地面の一部に、魔法陣が描かれた箇所があった。一際窪んでいる中心に、恐らく祭壇か何かがあったのだろう。魔法陣を取り囲むかたちで人が死んでいた。一人ではない。向こう岸は呆れるほど距離があったが、同じように倒れている人影がある。等間隔に人が死んでいる。
 あまりにも巨大な召喚の儀式、それも失敗した後の祭りの光景だった。
「二年経っちゃった」
 口から勝手に言葉が零れ出る。はほとんど思い出していた。

 先輩とは、家が近かった。クラスメイトからの、いいなあ、と羨ましそうな声を覚えている。なかなか人気のある先輩で、バスケ部がモテるって現実なんだ、なんて妙に納得した。部長だっけ、どうだったっけ。興味もなければ、詳しくもなかった。微妙に学区が違ったから、小中は一緒じゃなかったし。すれ違ったら会釈くらいはする、たまに見かけるご近所さん。先輩も、そうだったろうな。

 夕焼けの紫を眺めて、上空から大穴を見つけてしまえば、いよいよ全部ほんとうだった。残留するマナが、そうだと言っている。
 たった今日、この儀式で、“先輩”が召喚された。
 たった今日、この儀式で、先輩“は”召喚された。
 自分は、喚ばれてはいなかった。
 決して、呼ばれてはいなかった。
「二年経っちゃったよ」
 あの時。別に通り過ぎて帰ってもよかった。お腹は空いていたし、お母さんが挽き肉を買ってたので、もしかしたら今晩はハンバーグかもしれない。面倒だけど宿題もあるし、テレビも観たいし、早く帰りたかった。
 それでも夕暮れ時の公園で、「どうしたんですか」と声をかけた。
 なんだか険しい顔をしていて、様子が変だったから。具合が悪いといけないし。先輩に声をかけっちゃった、なんてクラスメイトに自慢したい気持ちもあった。
 ただ、それだけだった。確かに、それだけだった。
 今の今まで忘れていたくらいには。
 声をかけ、手を伸ばし、眩い光に包まれた後。
 の記憶は軟禁から始まっている。
 それから二年。
 先輩は「今日」召喚されたのに?
 明確な時差があった。けれど些細な時差だった。儀式の失敗が、どう影響するかなんて誰にわかるだろう。
 実際に自分の肉は歪み、時間を越え、今こうしてここに立っている。
 酷い事故にしか見えないこの有様は、実際に事故なんだろう。大量の死骸が何を召喚したかったまではわからない。ただ、“名も無き世界”から“ただの一般人”を喚び出したかったとは思えない。しかし、大がかりな魔法陣、複数の召喚師の存在が、“強大な力”を求めていた証拠だった。反動が、この惨状を生んだ。
 手を伸ばしたあの時の光は、今思えば召喚される前兆・魔力の奔流だったんだろう。先輩と一緒に召喚されてしまったことは、最早疑いようもない。
 事故の更に事故、に巻き込まれたと知っても、は泣かなかった。
 ただ、去来する波が過ぎ去るまで、じっと立つ。胸元、心臓に手をあてて、かきむしるよう、服ごと掴んだ。縋った。紫の石に。心を落ち着けたい時、いつだってそうするように。
 石はわずかに熱をはらんでいて、いつの間にか力を込めてしまったことに気付く。
 ああ、流石にわたし、びっくりしてるんだなあ。
「先輩より年上になっちゃった」

 深く深く息を吸って、吐いて。はしばらくして、歩き出す。頭上では一番星がちかちかと光っていた。