西へ


「うん、きちんと義務を果たしてくれたみたいで、嬉しいよ」
『……ケッ! 別にテメェに言われたからじゃねえよ、アァ!?』
 心底腹立たしそうにバルレルはがなる。
 エクスが二度程ノックしてから部屋に入ると、は床に這いつくばっていた。荒く浅く息をし、がくがくと痙攣していたが――人の姿を保っている。
 バルレルとエクスの会話は、の耳には届かない。目の前がちかちかと白く明滅する。吸っても吐いても血にも肺にも脳味噌にも巡っていかないようで、浅い息を犬のように繰り返す。呼吸はいつまでも落ち着きそうにない、四肢どころか、自分の意志では指の一本も動かせそうにない、
「立ちなさい」
 エクスはいつもの声音でそう告げる。
 喉までこみ上げた胃液を飲み下す。背中を、芋虫のように丸くてして、床に両の手のひらと、膝をつこうとする。小刻みに震える体のせいで、何度も何度も顔から床に崩れて落ちる。びっしょりと額に浮かんだ汗が、ぼた、ぼた、と床に垂れた。視界が滲む、霞む、ぐるりぐるりと世界が回る、その中で、はゆっくり、立ち上がる。
 笑んだ蒼い目が、いい子だね、と言っていた。
「方角は、わかるかい?」
「西の……辺境……」
「もっと詳しく、説明出来るよね」
「……北インダリオス地方……、旧王国との、国境沿い……」
「近隣に存在する街は?」
「――城塞都市サイジェント」
 エクスの優秀な教え子は、治まらない吐き気と痛みに襲われながら、それでも正しい回答を述べた。
「よろしい」
 遠き地で奔流した力は、のそれとよく似ていた。彼女が、巨大な心臓だった頃と。そして、表に出てくることはない、核とする魔力と。
 エクスが察した感覚を、はほとんどそのまま理解していた。ざわつく肌が、逆立つ産毛が、教えてくれる。
 西の果て。
 自分の肉がぐにゃりと歪む何かが、そこにいる。
「パッフェル」
「はぁい♪ ご準備、でっきました~」 
 パッフェルはするりと現れ、手際よく荷物を並べていく。鞄、靴、服、武器。
 鞄は、見るからに上等ではない、くたびれた革製のトランク。中身は既に詰めてありますとパッフェルが言った。靴は、履き古されたようなロングブーツ。見るからにぼろ靴だった。服は、動きやすい――逆に言えばそれしか長所がない、簡素な作りの上下。フードのついた丈の長いマントは、いかにも旅人然としている。武器は、柄の短いナイフ。腰に下げられるように、ベルトも付いている。
 旅支度だと理解するのに、時間はかからなかった。
「出発は早い方がいい。言い訳はボクがしておくから、大丈夫さ」
 何が待つのか、意味はあるのか。何が、起こるのか。見当はつかない。けれど、行かなければならないと、の肉が叫んでいた。
「それから、これ」
 まだ震えの残るの手に、エクスは握り込ませる。すぐ気付いて、目を見張って、声は声にもならなかった。
「わかってるね?」
「――はい」
 手渡された石――未誓約のサモナイト石を、は弱く、握った。


 手早く着替えを済ませ、窓から屋根によじ登った。
 ここでは、高さが足りない。
 幸い、派閥は聖王都ゼラムを取り囲む城壁の側にあった。
 の鍛えられた脚は音を立てず屋根を駆け、速度を増し、そして――跳躍した。空中にマントが翻る。助走をつけたとしても絶対に届かない距離を、足場のない宙を、とん、とん、とん、と跳ねていく。練り上げた魔力が生んだ風が、の体を運んでいた。
 城壁に降り立つと、中でも一番背の高い側防塔に向かう。
(よかった、)
 は少し安堵する。人気が遠い。恐らくここは、ゼラムの城壁でも随一に警備が薄い箇所だろう。断崖の滝から流れる太い川と、召喚師が多数所属する派閥に挟まれた位置。
 あっという間に、街を一望する高さまでたどり着いた。
 緑の三角屋根からは、遠くまで見通せた。水平線が、まだ日の高い真昼の光を受けてちらちらと輝いている。あれは、王都の貿易を担う汽水湖。小さく、船が行き来しているのが見えた。
「帰りは絶対ェあっち使う」
 ぼそりと呟いた独り言は、荒れていた。
 エクスに握り込まされた石の色は、バルレルのものと同じ、紫。サプレスのサモナイト石。
 蒼の派閥の総帥から、直接命じられたも同然だった。
 使え、と。
 己が呪う力を、呪いながら学んだ力を、今こそ使え、と。 
「ごめんね」
 水をすくうように捧げ持つと、ふっと息を吹きかけた。
 たちまち、石が熱を帯びる。
 は街から背を向け、城壁の外へと石を投げ、続いて一緒に身も投げた。
 内臓の浮遊感と、心臓からずるりと何かを引きずり出される感覚。
 眩い白光に包まれると、の体は垂直に天に向かって上昇した。場所を選んだとは言え、お養父様の言い訳がどこまで通じるか怪しいものだった。街中で、こんなのを喚ばなければならないなんて。
 人の目さえ届かない高さまで、飛翔する。びょおびょおと加速していく風は上へ上へ、やがて雲を突き抜けていく。
『あーーーーーーったくよォ、ふざけんな胸糞悪ィ!!』
 バルレルの絶叫が聞こえた。
 竜の背に生える仄かに光を宿す羽は、天使のそれ。
「おねがい」
 を乗せた霊竜が、応えるように羽ばたいた。