・いつにもまして捏造設定が半端ないです
・モブのおばあさんとおっさんが出てきます
・双子の同居記念日(兄菊さんのbot稼働日)は11月4日で公式のものですが、
それを元にして何故この時期に引っ越ししたのかなどを捏造しております。

捏造設定は以下の通りです

・大学受験の時に妹が体調の悪さを隠して試験に挑み、それで失敗してしまった
・浪人しようとしたが兄が許さなかった
・地元の女子大に進学、同時に兄の大学に編入することを決意
・兄は全力でそれを応援、サポートに徹する

・6月中旬願書受付
・8月下旬試験日
・9月上旬合格発表
・10月1日入学
→11月引越し同居記念日

そんな感じのタイムスケジュールを元にしてあります
いつもながらに妄想過多ですが、それでもよろしければどうぞ!


 しゃりしゃり。
 しゃりしゃり。
 小気味いい咀嚼音が響く。適度に熟れていて甘く、みずみずしい味が口いっぱいに広がる。
「おいしいですね」
「おいしいですね」
 同時に言って、同時に笑った。双子だからか、そういうことはとても多い。いつものこと、変わらないこと。今朝から色んな意味で緊張していたから、なんだかすごく安心した気持ちになる。
 だって、数ヶ月ぶりに兄様と、顔を会わせている。
 二人して、自然と正座していた。ちらりと横を見れば、兄様は畳に直に座っていらっしゃる。「一枚しかありませんしお前がどうぞ」と譲って頂いた座布団の上で、申し訳ないやら、こそばゆいやら。兄様はいつもそう、なんでもわたしを優先してしまう。甘やかされてしまう。
 部屋が狭いおかげで、隣り合う肩が近くて少し嬉しい。
 今日は九月九日、
 わたしの編入試験の合格発表日。
 まさか今年初の梨を、ここで食べることになるとは思わなかった。
「すいませんねえ、狭くて汚くておんぼろの築30年越え安アパートで……」
「いえっあのっお気になさらず……!」
 木枠の窓に、色褪せた六畳半。台所の水周りに張られた水色のタイル。穴の開いた笠に豆電球。煤けていない箇所を探す方が難しい、天井、土壁、柱、押入れの襖。
 そう、ここは今、兄様が一人で暮らしている部屋。
「梨、もう一個剥きますか。すきでしょう?」
 返事をする前に兄様が立ち上がる。よっこらしょ、なんて言いながら。そんな一言すら懐かしく思えて可笑しい。
 兄様と離れて暮らして、一年。
 長い長い、気の遠くなるような一年だった。
 それも今日で終わりを――告げてほしい。
「はい、お願いします。たくさんもらっちゃいましたねぇ」
 台所の床にそのままぼんと置かれたビニール袋の中には、まだまだごろごろ梨が入っている。二人分でもまだ多いくらい。
「あの人いっつもそうなんですよねー本田くん本田くんって毎日おでんとかよこしてくるんです」
「ふふふっ、毎日おでんですか?」
「おかげさまでおでんアレンジのレパートリーが増えましたよ」
「あら、それは楽しみ」
 しゅるしゅると皮を剥きながら話す兄様の背中を眺めながら、さっきの会話を思い出していた。

「まあまあこれが本田くんの妹さん! やっぱりそっくりねえ、双子っていいわねえ!」
 ――兄様に駅まで迎えに来て頂いて、アパートに着くなり、突然捲くし立てられた。
 びっくりして二の句が継げられないでいると、兄様は普通の顔で会釈している。
「ああ、ここの大家さんですよこんにちは。ほら挨拶なさい」
「あっはい、こんにちは! 兄がお世話になっております」
 聞けば、大家さんは兄様の隣に住んでいるらしい。なんでも兄様が一度米袋を代わりに持ってくれて、それから何かと気にかけるようになったとか。昔は下宿として賑やかだったけれど、今では学生が住むのは珍しいから余計に、だとか。
 ……といった具合に、初対面でもわかるほど、お喋りずきなおばあさんのようだった。お年を召していらっしゃるのに、元気に喋る喋る。兄様もこうやって廊下で立ったまま、何度も世間話に付き合ってきたのだろう。わたしのこともよく話されているらしく、だから知られていたみたいだった。
「妹さんが来るってことは、じゃあ本田くんもいよいよお引っ越しなのね、さみしいわねえ」
 心から残念そうに、でも笑顔で大家のおばあさんが言う。
「ねえちょっと妹ちゃんほんといいお兄さんよねえ、」
 ――大家が言うのもなんだけど、うちボロじゃない? どうしてこんな所に越して来たのって本田くんに聞いたら、妹が編入するので、その時のためにお金を貯めているんですって言うんだもの。家賃の安さだけは他所には負けないからねうちはね。
 おばあさんのよく回る舌に、わたしは瞬きしか出来なかった。
 ……兄様はいつもそう、なんでもわたしを優先してしまう。甘やかされてしまう。
 だって、そんな。
「ほんといいお兄さんねえ」
「いえいえ、それほどでもありますが」
「あらやだよこの子ったら」
 続けられる会話を、呆然と聞きながら、わたしはぽつりと呟く。
「編入するので」
 だって、合格発表もまだなのに。
「しますよ」
 しれっと告げられて、いよいよ歯を食いしばる。
「一年間、頑張ってきましたからね」
 兄様と離れて暮らして、一年。
 長い長い、気の遠くなるような一年。
 人前でなかったらきっと泣いてしまっていた。
「ありがとう、ございます……!」
「はいはい、泣くのは合格してからにしましょうね」
 ほとんど涙声だから間違ってはいなかったけれど、からかうような声に甘えることにした。もう!と兄様を叩いて、なんとか泣かずに済んだのでした。
「仲のいい兄妹ねえ」
 その間、ずっとおばあさんがにこにこしてる。

 ――それから「ではこの辺で」と頭を下げたら、問答無用で梨を持たされてしまったのだった。
 二つ目の梨がきれいに切り分けられて運ばれてくる。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
 ちゃぶ台の上には梨のお皿と、電源の入れてあるノートパソコン。画面を一緒に見るために、隣に並んで座っていた。
 テレビも置いてないような時代を感じさせる一室では、ものすごく浮いている。文明開化すら感じる。よく見れば兄様の携帯とUSBケーブルで繋がっていた。ああ、こうやって兄様はどうにかこの環境下でもネットを繋げて、スカイプなどに連夜付き合ってくださったのだ……そう思うと、こみ上げるものがある。
 開かれたページは、編入試験合格者発表掲示板。
 今日わたしが、兄様の部屋に来た理由。
 別々に見る、という選択肢は、わたしたちにはなかったのです。
「とりあえずF5連打でいいですか」
「鯖に負荷がかかるのでだめです」
「半分冗談ですけど」
「半分本気ですけど?」
「ふふ、そうですね」
「もう、兄様ったら」
 しゃりしゃり。
 しゃりしゃり。
 梨を食べながら、その時を待った。


 真っ先に振り向いて、
 呼びかける刹那に、
 たったひとこと、

 ――よかった。

 おめでとうございますと、
 すぐ大きな声にかき消されたけれど、
 そのささやくようなひとりごとを、
 わたしだけが聞けた。
 

「さて、では行きますよ」
 ひとしきり泣いて、喜んで、両親に連絡して、わたしが落ち着くのを待ってから、兄様が立ち上がる。
「? どこにですか?」
 一緒に合格発表を見る、それからの予定はとくに話していなかった。欲を言えば、お祝いに、久々に兄様の手料理が食べられるんだろうな、なんて期待はしていたけれど。もしかして、そのためのスーパーかしら。
 きょとんと兄様を見上げたら、笑って手を差し出されたので反射で掴む。双子として身についた脊髄反射のひとつ。立たせてくれたので、笑顔が近づく。鏡を見なくとも、わたしも同じ顔で笑っているのがわかった。
「もちろん、不動産屋さんです」
 そう来ましたか!
 なるほど、兄様らしかった。すばやい流石兄様すばやい。
 既に互いの希望を出しながら、何件か物件に目星をつけていた。無事に合格した今、ようやっと本格的に住まい探しが出来る。
 後期編入学は十月から。あと、約一ヶ月。
 兄様と一緒に暮らせるなら、早くに越したことはない!
「善は急げですね!」
 二つ返事で出かける準備をした、と言っても上着を羽織って手荷物を持つだけなのに、これ以上ないほどの手際よさだったと思う。それを見ていた兄様が口元を押さえて笑っていたけれど、見なかったふりをする。もう!
「この間取りなんてどうですか」
「あっいいですねぇ。えっいいですねぇ!?」
 出掛けに渡された間取り図のコピーを見て、その条件のよさに二度見した。
 兄様は部屋の鍵をしめながら、上機嫌にすらすらと説明してくれる。
「ふふふ、そうでしょういいでしょう。バストイレ別靴箱ベランダ室内洗濯置き場有り都市ガス駅近近所にコンビニスーパー商店街バス停有り某大学生向け通学向き2LDKです」
「呪文みたいになってますよ兄様! それでこのお値段ですか、優良物件ですねぇ」
 いつの間にか大家のおばあさんが出てきて、よっぽど嬉しそうだったのか「受かってたろ?おめでとうねえ!」と気さくに声をかけてくれる。ありがとうございます!!
 きっと兄様のことだから張り切って探してくれたんだろう。まだ地元にいるわたしより、こちらに住んでいる自分が探した方がいいとおっしゃってくれていた。
「じゃあ今日は、この物件について聞きに行くんですか?」
 思わず声が弾む。
 兄様と一緒に暮らす家を探しに行く、なんて幸せすぎるイベント!
「もう契約してあります」
 ……。
 …………。
 …………、…………?
 今なんて。
「もう契約してあります」
「!!?!?!?」
「保証人の書類は両親からもぎとりましたし、契約金も滞りなく支払いました、ああお前が気にすることではありませんよ私がするべきことをやったまでです」
 おばあちゃんはしきりに「すごいよねえ本田くんは」ってにこにこしてる。そうです、すごいんです、うちの兄は! 色んな意味で!! えっ?! 待って!! ちょっと待って!? 
 つまり学業の間にバイトをして貯金をしさらにその合間合間にわたしと連絡を取り合いながら勉強に行き詰るわたしを応援しつつ好条件の物件を探し出し契約まで済ませてくる兄様!!
 ――かっこよすぎでは!?
「さて、では行きますよ」
 いよいよ言葉を失ったわたしに、兄様はとびっきりの爽やかな笑顔を見せてくれた。
 ああもう、まぶしい!!


 そしてその爽やかな笑顔は不動産屋で失うことになる。
「いやあ、ほんますいません、こちらの手違いでしたわ〜」
 へらへらした笑顔に思わず眉を寄せる。うさんくさい関西弁も少し耳障りだった、でも――
 わたしは最早それどころではなかった。
 大家のおばあさんに見送られて、兄様のアパートから十五分ほどでついたそこは、小ぢんまりとした店構えだった。いかにも昔からここで商売をさせてもらってます、そんな佇まいすら感じさせる。
 大手・有名店より、こうした地域密着型の店舗の方が、掘り出し物の物件を扱っている……こともある。というのは、この前聞きかじったこと。今はなんでもネットで調べられるから、とても便利。学校近辺の家賃の相場や、治安の良い場所・悪い場所、お買い得なスーパー情報なんかも、ええ、Google先生で。
 そうやって心構えの出来た状態で挑んだのに、結局、なんでもかんでも兄様がやってくださっていたのだから、なんというかもう、もう。兄様ったらほんと、兄様。
 兄様ったらほんとう、兄様、なのだけれど。
 だからこそわたしは今、膝に置いた手をぎゅっと握り締め、一人ふるえている。
「ご希望の入居日が十月頭ですやんか、それをどうも、一ヶ月ずれて頭に入れてしまったみたいで。頭だけに」
 何も上手くない。寒い。辛い。この世は悲しみに満ちています。
 通された隅っこのカウンター(と言っても、全部で四席くらいしかない。もちろん他にお客さんはいない)の前で、どうやら兄様と契約のやりとりをしたであろう社員?さんが、ぺらぺらとよく喋る。申し訳なさそうに何回もはんかちで汗を拭う仕草をするけれど、汗よりも脂がとれている。うわあ。
 学校や事務所によくある安っぽいパイプ椅子に座らされて、出されたお茶に手もつけず、乾いた笑顔を半端に浮かべながら、汗を拭いたいのはわたしの方だった。背中を伝うのは紛れもない、冷や汗。
 兄様がそこでようやく、口を開く。
「つまり……、入居日が……、一ヶ月……、ずれると……?」
 一言一言を重々しく、確認するような低い声。ああ、ああ……。
 もう最初からずっと、すぐ隣から感じていた。
 静かな、確かな、怒気――もとい、もしかしたら――もしかしなくても――、
 そうでないと信じたいのにやっぱりどうしてもそうとしか思えない――殺気。
「そういうことになりますなあ、ほんま、えろうすいません」
 言い方がだめ! もっと取引先に言うみたいに言って!
 錯乱して叫び出しそうになるのをぐっと抑えた。そもそもこの人はどうして気付かないんでしょうかこんなに怒ってる兄様久々に見たというか見れてないというか横顔をちらりと見る勇気もないんですけれども。
 要約すれば、兄様がもう契約したという物件は、まだ現在も入居者さんがいる状態らしい。その方の退去予定は十月中旬に決まっていたのに、完全なる勘違いによって、そちらの都合のいいように認識を誤られてしまったようだった。書類上に不備はないというだからたちが悪い。でなければ兄様が気付かないわけがない。
 ――せっかく、やっと、やっと、また、一緒に。
 ――兄様と、暮らせると思ったのに。
 そう、心から落胆するのも束の間。
 わたしに去来する思いは、不動産屋さんへの圧倒的謝罪だった。
 出来ることなら土下座したい。
 今すぐパイプ椅子から飛び降りて、それで話が済むのならいくらでも床に額をこすりつけたい。
 これから起こり得るであろう事象に先立って謝りたくなるなんて、可笑しな話だとわかっている。
 何故これほどまでに怯え、ふるえ、祈らなければならないのか、だなんて。
 そんなの、わたしの兄が、超が百億個ついても足りないくらいのシスコンだからに決まってる。
 当然ながらその事実を知らない不動産屋さんは、こともあろうかへらへらと笑いながら詫びとも言えない詫びを繰り返し、あろうことか、こんなことまで言い出してしまった。
「でも学生さんだからどうになりますやろ?」
 もうやめて! あなたのライフはもうゼロよ!

 その時、兄様が動いた。
 くるうり、ゆっくりとこちらを向いて、
 「お前は先に戻って、大家さんと世間話でもしてなさい。いいですね?」
 にっこり。
 ――笑ってらっしゃる。
 一人で行かせるのは心苦しいですが、と断りを入れるあたりとても兄様らしい。道はわかりますよね、一本道でしたし、まあ迷子になったらすぐ連絡なさい、約束ですよ、はいこれが家の鍵です、そう語りかけてくる声はいつも通りとても、とても、とてもやさしい。
 だけど。
 ここで。
 帰っては。
「私はちょっと……こちらの方と、込み入った話がありますので」
 ――不動産屋さんの安否が危険で危ないのでは?
 愛する兄になんて言い掛かりだろうと自分でも思わなくもない、それでも一瞬で色んなことが頭の中を駆け巡っては消えていく、ああ、そうです、うちの兄は――うちの兄は――時としてちょっとやんちゃでは済まされないほど苛烈でして――ちょっと度が過ぎるほど妹想いなだけで悪気はなくもないですけどとにもかくにも早まらないで頂きたい――!!
 合格発表前よりよっぽど胸がどきどきしている。
 兄様は常日頃鍛えていらっしゃるだけあってとてもお強く、並大抵の人間が敵うようなお人ではない。怒りに任せて腕力で解決を図るようなお人ではない。はず。はず。ないはず。ないはず。たぶん。おそらく。きっと。だといいな。
 こんなにもはらはらと不安を抱いてしまうほど、兄様が怒っていることが、わかってしまう。
 兄様も、わたしと――妹と一緒に暮らせる日を、ずうっと待っててくれたことが、こんなにもわかる。血相を変えながら、同時にどこかで喜ぶだなんて。
 申し訳ない話、わたしだって超が百億個ついても足りないくらいのブラコンだから仕方ない。
 青くなるか赤くなるか、勝ったのは前者とはいえ。
 そう、兄の言うことを素直に聞き入れる妹じゃいられない時もある。まさか流血沙汰にはならないとは信じている。でも、遠慮容赦手加減一切皆無比類なき罵詈雑言の嵐くらいは、予想できる。今更すぎて口に出すことも憚られる事実として、兄様は……妹以外に、あんまり……あんまり、ほんのちょっと、おやさしくないのです。
 だから意を決して、真っ直ぐに、真っ直ぐに、どうにか真っ直ぐに正面から兄様を見据えて、言った。
「わたしも残ります!」
「いいから。」
「はいっ!」
 にーーっこり。
 笑顔ひとつで即答せざるを得なかったわたしは、今日も兄の言うことを素直に聞き入れる妹でしかなかった。
 ああ、ごめんなさい、不動産屋さん……。
 それはそれは、満面の、凄みのある……笑顔でした……。


 とぼとぼと来た道を戻る折幾度となく走って引き返したくなる衝動に駆られること十五分。
 部屋に入ることも躊躇われ廊下をうろうろしていたら大家のおばあさんに見つかり三十分。
 大家のおばあさんが自分の部屋から椅子を持ってきてくれたけど結局座らないまま十五分。
 ちょうど一時間ほどで、兄様はお戻りになった。
 姿が見えたと気付いた時には、勝手に体が走り出していたくらい、わたしは何ひとつ落ち着けていなかった。
「兄様っどうなりましたか、だいじょうぶでしたかっ!?」
 不動産屋さんは!!
 とはまさか言えない。
「ええ、お前は何も心配しなくていいですよ」
 取り乱すわたしをなだめるため、兄様の手が頭に伸びてくる。なでられて急に大人しくなるこれも、反射のひとつなんだろう。兄様になでられるのも久々で、思わず目を細めてしまう。
「全部説明しますからとりあえず部屋に、というかなんですか入って待ってなかったんですか? 全く仕方ない子ですねふふふ」
 そうして、久々にわたしをなでる兄様の目も。こんなとき、どうしようもなく幸せを感じてしまう。
「だってどうしても心配で……」
「だから言ったでしょう、お前は何も心配しなくていいって」
 わたしが心配していたのは不動産屋さんのこと、という事実はひとまず置いておく。
 廊下に戻れば、さっき飛び出していった時と同様、大家のおばあさんが椅子に座っている。
「あら本田くんおかえり! どうしたの妹さんに心配かけて」
 心配してたのは以下略。
「ああどうも、それがですねちょっと困ったことになりまして」
「聞いたわよ、引っ越し時期ずれるかもって?」
 あちらさんのミスとは言え、全部を大家さんに説明するのも悪い気がして、今月中に引っ越しできないかもしれない、とだけ伝えてあった。
 兄様は何度か頷いてみせる。
「ええ、一ヶ月ほど。申し訳ないんですが、申請していた退去日を来月にしてもらってもよろしいですか?」
「本田くんは真面目ねえ、家賃も毎月ちゃんと払ってくれてたもの。全然だいじょうぶよ」
 繰り返すようだけれど、合格発表は、今日。もう既に退去日まで伝えてあるなんて……兄様ほんと兄様。
「でもここで縁が切れるのは惜しいねえ、本田くんに孫を貰ってほしいくらいだわあ」
「ははは光栄ですね」
「孫娘はまだ十一歳だから早すぎるけどねえ」
 ガタッ。
 音もしていないし立ったままなのにそう立ち上がった音が聞こえた気がした。
「どうしたの本田くん」
「いや……虫がちょっといたもので……」
 その場でたたらを踏んで兄様が体勢を立て直す。
 ……兄様ほんと以下略。


「まず、入居日は残念ながら十一月になりました」
「そうですか……」
 今度こそ部屋に入って、事の顛末を兄様が語ってくださる。
 またしても座布団を譲られてしまったので有難く座っていた。ノートパソコンは閉じてあって、ちゃぶ台を挟んで兄様と対面するかたち。飲む気にもなれず、淹れてもらったお茶の湯のみを持つだけになる。手のひらがじんわりとあたたかい。
 やっと落胆が体に追いついてきたようで、お茶の水面に自分の沈んだ顔すら見えた気がする。
「十月から入学ですから、ばたばたさせてしまってすみません。引っ越しは私が手伝いますからね」
 頭を下げる兄様に、こちらが顔を上げる。そして、さらに下げる。
「そんな、兄様が謝ることじゃありません! むしろ何から何まですみません!」
「お前も謝ってるじゃないですか、いいんですよ私がすきでやってることですから」
 ご自分がどれほどのことをやってのけたのか、わかっているだろうに。
 ほんとうに、これだから兄様は。
 くすくす笑われてしまったので、今度はちゃんと言い直す。
「何から何まで……ありがとうございます。兄様は、ほんとうに頼りになりますね」
「ふふふ」
 あ、嬉しそう。
 屈託なく笑う兄様が可愛くて、わたしも釣られて笑った。
「そうそう、十一月まではマンスリーマンションを利用しなさい。不動産屋に紹介してもらって格安で借りられます」
「格安」
「あと先ほどの物件ですが、不動産屋の御好意であちらの大家さんに交渉して頂き、若干家賃を下げてもらいました」
「御好意」
 ――不穏な気配を察知。
 それでも「話し合いはもちろん平和的に終わりましたよ」と兄様が言うので、そういうことにしておこう。
 直接兄様が不動産屋さんに手渡すというので、マンスリーマンションの申込書を今書いてしまうことにする。ボールペンはお借りした。
 実際はマンスリーマンションの方に申込を送るのでは?
 何故不動産屋さんの方に手渡すのか?
 そもそも格安って、一体――?
 ……これ以上深く考えるのはやめた。
 書き損じないように気をつけつつ、紙面と睨めっこする。その間にも兄様の視線を感じるので、なんとなく子供じみた心持ちになる。見守られている子供の気持ち。そう言ったらこの人は呆れるだろうか、それとも、さもありなんと、やっぱり笑うんだろうか。
「でもいきなり契約してありますなんて、兄様ったら」
「ふふ、私に抜かりも死角もありませんよ、無敵です」
「きゃー兄様! 強靭! 無敵! 最強!」
「粉砕! 玉砕! 大喝采!」
 きゃっきゃ!
 必要事項を記入していきながら、とりとめなく話していく。
「わたしが気に入らない物件だったらどうするんです?」
「この私がお前の気に入らない物件を選ぶとでも?」
「思いません!」
 自信満々な兄様が楽しい。
 住所を書き終わり、氏名を書き終わり、項目にチェックを入れ終わり、それから少し考えて。
「……合格してなかったらどうするおつもりだったんですか」
 顔を伏せたまま、ずっと思っていたことを、そっと口にした。
「信じてましたから」
 即答。
「兄様すき……」
「私もお前がだいすきです」
 顔を覆って言うわたしに、申込書類を回収しながら、兄様は普通に返すのでした。

「あれ? 手のひらどうされました?」
 スーパーで買い物中。今日はわたしの好物ばかり作ってくださるらしい。やった!
 ふと品物を取ろうとした兄様の手のひらに、小さな傷を見つけた。わりと新しい。
 絆創膏あったっけ、と鞄を漁ると、なんてことない顔で「大丈夫ですよ」と兄様が微笑む。
「不動産屋の湯のみが少し――脆かったものですから」
 ……。
 ……。
 粉砕……玉砕……大喝采……?
「……ご自愛ください……」
「なんですかもう、お前は心配性ですねぇ」
 思わずぎゅっと兄様の手を握った。口調は呆れているけど喜びを隠そうともしない声を聞きながら、わたしの心はもう一度、圧倒的謝罪に満たされた。
 ああ、ごめんなさい、不動産屋さん……。


 スーパーで材料を買って、
 ケーキ屋さんでケーキを買って、
 狭い台所で無理やり二人で料理を作って、
 一緒に食べて。
 十一月、
 あと二ヶ月後。
 それがまた、当たり前の日々になる。


「私としたことが……迂闊でした……っ!!」
 数ヶ月ぶりの再会と、合格のよろこびと。
 わたしたちは実によくはしゃいで、笑って、話して、浮かれていた。
「嫁入り前だと言うのにこんな時間まで引き止めてしまって……!!」
 だからうっかり終電のひとつくらい逃してしまうのも、致し方ないことと思う。
「引きとめって、相手は兄様ですよ?」
「当たり前ですよ私以外だったら殺しますけど?」
「わあ兄様ったら目が本気!!」
 がっくりとうなだれる兄様の前で、正直に言うと、笑いを噛み殺すのに必死だった。
 つまりわたしが言いたいのは、
「これはもう、今日は泊まっていくしかありませんよね」
 座布団が一組しかないようなこの部屋に、
 布団が二組もあるはずがないってこと。

「これっきりですからね!!」
「はあい」
 でもわたしの瞼にはありありと思い浮かぶ、
 たとえちゃんと布団が二組あったとしても。
 わたしがお願いしたら、兄様は。


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