銀の折り紙

02


「カラオケ行こーよ」
「それっきゃねーな!」
はー? 店番?」
「そー! また今度誘ってなあ」
 浮かれてざわつく放課後に、誘いを軽く断って、そそくさと帰り支度をする。頼まれている訳ではなかったが、“店番”は嘘でもない。こんな風に早く帰りたい日には、これ幸いと良い口実になっていた。
 度重なる胃痛と、おさまりの悪いような、いたたまれない――それこそ八年は抱え込んでいる――気持ちで、いっぱいいっぱいだった。今日みたいに皆の前で、緑谷が笑われた日はいつもそうで、
(アイツ、ほんっっっと勘弁してくれんかなあ)
 とくに爆豪が緑谷に突っかかった日は最低最悪。胃袋が軋んで、燃えるように痛んで仕方なくなってしまう。
「……かーーえろっと」
 やや乱暴に突っ込まれた白紙のプリントは、鞄の中でくしゃりと小さくなった。
 後はもう、帰るだけ。鞄を肩にかけて、席を立つ。
「話まだ済んでねーぞデク」
「カツキ何ソレ?」
 素知らぬ顔で、帰るだけ。下校時間は基本開けっ放しの扉から、廊下に出る。
 それなのに、
「……つーわけで一応さ、雄英受けるなナードくん」
「…………」
「いやいや……流石に何か言い返せよ」
「言ってやんなよ。かわいそうに、中三になってもまだ彼は現実が見えてないのです」
 耳は、拾う。
 聴きたくもないのに。
「そんなにヒーローに就きてんなら効率良い方法あるぜ。
 来世は“個性”が宿ると信じて……、」
 ――胃袋が軋んで、燃える。
「屋上からのワンチャンダイブ!!」
 噛み締めた唇から、いよいよ血の味がした。


「いーーけないんだーーーいけないんだーーーー」
「…………あ゛?」
 教室から出て、少し歩いた爆豪を、馬鹿みたいに明るい歌声が迎えた。有象無象のモブ共が帰宅する廊下の、壁に寄りかかっていた奴が、馴れ馴れしく近付いてくる。それだけでは飽きたらず、あろうことか、猫背気味の体を少し屈めて――しかも両手をポケットに突っ込んだ、舐め切った態度のまま――顔を覗き込んできた。
「先生に言っちゃお♡」
「ブッッ殺すぞテメエ」
 、タメ、クラスメイト。“個性”、『クソ鬱陶しいやつ』。
 クソナードとの会話を指していることはすぐにわかった。こんな風に“絡まれる”ことは、決して頻繁ではないものの――初めてでも、ない。
「チクリかよ~」
「カツキは忠告してやっただけじゃん?」
「いやいやいやいや、だあってアレは言い過ぎでしょーー」
 はへらへら笑う。今にでも爆破してやりたいが、出来ない。“出来ないようにされている”。むかっ腹が立って仕方なかったが、手は出さなかった。学校内、しかも見晴らしのいい廊下では、いつ先公に見られるとも限らない。内申に響く。
「雄英志望で将来有望な爆豪クンさあ、」
 爆豪にはわかる。だからこいつは、ここで待ち伏せしていやがった、と。
「さっきの言葉、今からでも取り消さない?」
 クソ野郎が。
「どれのことだかサッパリわかんねーーーー」
 ケタケタと、笑いながら切り捨てる。爆豪勝己は強者だった。強者の自覚があり、明確な目標があり、目標を達成出来得る才能があった。全てを手にしていると、自他共に認められているという、自負があった。
「お前も行ってこいよ、まだ間に合うぜ? ワンチャンダイブ!」
 言い返すことも出来ないクソザコなんざ、道端の石かゴミクズ以下。
 弱者は、弱者でしかない。
 爆豪勝己は、そう思っていた。
「…………それが、」
 ぐっと胸ぐらを掴まれた。おいおい、と周りのモブ共が焦る声が聞こえる。腹は立っていたし、酷くイラついていたが、爆豪は冷静だった。
「それが、ヒーローになりたい奴の台詞かよ」
 静かな激昂が鼓膜を打つ。
 ――そうだ、俺は誰よりも、あのオールマイトさえ超えて、トップヒーローになる。あんなチンケなクソナード、取るに足らない存在で。
「ハッ、いつもの気持ち悪ィ笑顔はどうしたよ?」
「…………!!」
 爆豪勝己は、の激昂を、鼻で笑った。
 こんなチンケなヘタレ野郎は、お話にもなりゃしない。


「俺の邪魔すんな」
「おーーこっっわ」
「何だアイツ急に」
 退け、と顎をしゃくられて、思わず手を離していた。追いかけようなんて気には、なれなかった。
 気が付いたら掴みかかっていた。らしくないことをした。らしくないことをしたのはわかっている。けれど、らしくない顔をした――らしいことを。よりにもよって、あの爆豪に指摘された。
 自分以外は全て有象無象、名前を覚える気もさらさらない、自分さえ良ければそれでいい、傍若無人の塊みたいな男に見えるのに。
 把握されていた。の、“作り笑いに見えないようにしている作り笑い”を。
 爆豪勝己の視野が、決して狭くないという証拠だった。
「……ほんっっとに将来有望でやんなるよなあ、アイ……ツ…………、」
 大きな独り言の言葉尻が萎んでいく。
 下校や部活に向かう生徒は既にまばらで、は廊下にぽつんと取り残されていた。
 そして、今朝のように。
「…………あっ、えっとっ……その、なんていうか……」
 見慣れたモジャモジャ頭が、目の前にある。
「……あ、あのさっ!」
「~~~っっ悪いおれ急いでるからごめんまた明日さよならじゃあね!!」
 は、逃げた。猛烈な勢いで逃げた。勢い込んだ緑谷を打ち切って、は走った。
 走りながら口元を手で押さえる。笑え。念じてみても、唇はぴくりとも動かない。いつもの顔が繕えない。笑え、笑え、笑え!
「こんちくしょ、かっっっこわる……!」
 今更すぎて笑えない。
 他人が言われたことに胃を痛め。
 他人が言われたことに腹を立て。
 勝手に喧嘩を売った挙句、負ける。
 さらに言われていた張本人に聞かれていたとしたら――もう考えたくもない。
 神様仏様オールマイト様、どうか聞いてませんように、聞いてませんように、聞いてませんように!
 あらゆる信仰に祈りを捧げ、はがむしゃらに走り続けた。


「……」
 走り出してしまった背中に、伸ばした手は中途半端に止まった。おろす前に、ぎゅっと握りしめる。意味なんてないのに。
 緑谷出久はこれから、焼かれて窓から投げ捨てられたノートを取りに行く。悪いことにノートは池に落ち、酷い有様に、歯を食いしばることになろうとも。
 “それがヒーロー目指す人間の台詞かよ。”
 今だけはほんの少し、口元が和らいでいた。


 ――ちりんちりん。
 扉の上部にはベルが付いていて、開くと涼やかに鳴り、“来客”を教えてくれる。
「ぜーーはーーーぜーーはーーーーおえっ、ただいまぁああ」
 涼やかとは程遠い、全力ダッシュで嘔吐くを、その場にいた全員が各々に出迎えてくれた。
「あらちゃん、おかえんなさい。そうそう、お菓子あるからお食べね~」
「いや菓子より飲み物じゃね? ウケる~~おかえり~~~」
「ないないするおにーちゃんだ! おかえりー! あそんでー!」
「こぉら、おにーちゃんでしょ、もう。おかえりなさい、大丈夫?」
「また急いで帰ってきたね……? おかえりなさいくん、はいお水」
「おかえり。いやあ君は元気じゃのお、儂は腰が痛くて痛くて」
「おかえりー。えっもしかして学校から走って帰ってきたの? 馬鹿なの?」
「ああおかえり、ちょうど良かった洗濯物こんで来な、あと着替えて店番よろしく」
 ――何も、家が大家族という訳ではない。
 現在の家は三人家族で住んでいる。気のいいおばちゃんも賑やかな女子高生も小さな妹も穏やかなお母さんも面倒見のいいお兄さんも腰痛持ちのじいさんもいない。あえて言及するならそう、二言目には眉をしかめた姉と、帰宅同時雑用を押し付けてくる母の、三人家族だ。
 はお兄さん、もとい“先生”からお礼を言って紙コップを受け取り、ぐいっと飲み干した。
「うまーーーーいもう一杯」
 “待合い室”に置かれたウォーターサーバーは、お湯と冷水の二種類が出てくるタイプ。おいしかったが、胃に悪そう、と思ったは少しだけお湯を足し、ぬるくしてから二杯目を飲んだ。すぐ脇のゴミ箱に紙コップを捨てる。
「……はいはい、洗濯物ね」
「はいは一回」
「ハイ」
 ようやくひと心地ついたは、そこでやっと靴を脱いだ。入口すぐ横のシューズボックスに仕舞い、デカデカと自分の名前が書かれたスリッパに履き替える。ついでに、ボックス内の大小様々な靴を綺麗に並び直した。スリッパも同様に。
 それから、届いたばかりなのか、“受付”に置きっ放しだった夕刊のビニールを破き、一度広げる。“お客さん”が読んでいるうちにバラけてくるので、三点ほどホチキスで留め、また針で手に刺さらないように、上からセロハンテープを貼り付ける。マガジンラックには入れず、
「じいさん、読むでしょ。夕刊でーす」
「おお、ありがとうなあ」
 座っているじいさんに手渡した。
 ソファで待っている人数は、じいさんを含めて三人。母娘連れの子供の方と目が合うと、また無邪気にせがまれる。
「あそぶー?」
「ハァーイもうちょっと待っててネー」
「いつもすみません」
「いえいえーー毎度ご贔屓にありがとうございます」
 軽く会釈して、前を通らせてもらった。カーテンに仕切られた“施術用ベッド”が向かい合って並ぶ、その間を真っ直ぐ進んだ突き当たりに「スタッフオンリー」の扉があり、そこからがすなわち、家の住居スペースであった。
 家の鍵――オールマイトのキーホルダーが付いてる――を挿し込んで回すと、がちゃり。音を立てて、閉まった。つまり、最初から開いていたわけで、は渋い顔をする。
「まあたねーちゃんだろ、戸締まりちゃんとしろよなあ」
「あーごめーん閉めといてー」
「大丈夫よちゃん。皆で見てるから、敵も早々入れないでしょ」
「そうですよねー? うちの弟ったら細かくて心配性で小うるさいんです」
「あら、悪いことじゃないわぁ」
「(皆で見て……る……???)…………はあ」
 カーテン越しに返ってくる声、という何ら説得力のない台詞に、思わずため息が出るというものだが、
「こら、アンタため息ばっかついたら幸せが逃げるんだからね。吸って戻しな」
「マジ笑う、カーチャンに言われてっぞ~~吸え~~~」
 ここではそれも許されない。
 カーテン越しとはいえ、ご近所さんばかりとはいえ、公衆の面前で実母から大真面目にボケをふられる男子中学生の気持ちを考えてくれる人間は――ここには存在しなかった。

 田等院商店街、整骨院。
 地域密着型、小ぢんまりとした街の整骨院は、本日もそこそこの客入りだった。