銀の折り紙
04
息が上がる。自分の呼吸音がうるさい。本日三回目の全力疾走に、歯を食い縛る。
は走った。
「ツララを見ませんでしたか?!」
雪山さんが叫んだ瞬間、走り出していた。
脳裏を過ぎったのは。
――お気に入りの、猫のぬいぐるみ。
絵本を放り出したのを覚えている、しっかりと雪山さんの手にツララちゃんを引き渡した、その、どこかで、部屋に転がる“ツララちゃんのともだち”を、ちらりと見たような気が、した。ただの気のせいならいい。「ホウレンソウもなく勝手にどこ行ってんだバカ」なんて、母親に叱られるだけで済む。
「……気のせいじゃ、ないんだよなあ」
整骨院の裏口――つまり家にとっての玄関扉に手をかけて、わかる。ひいやりと“冷たい”。
ばたばたと避難したものの、通りに面していない自分の家はそこまで荒れていない。緊急時なので(後で掃除すんのおれだし)、土足で上がる。すぐ駆け込める距離だが、呼吸を整えるように、“驚かさないように”、一歩一歩進んでいく。
通りは相変わらず煩く、また悪いことに、院のすぐ目の前でドンパチやってるらしかった。それくらい、音は近い。騒音の合間合間に、泣き声が、聴こえる。
は深呼吸して、出来るだけゆっくりと、整骨院への扉を開いた。
――急いじゃダメ、急かしてもダメ。そんなオトコはモテないって、ねーちゃんから口酸っぱく言われてる。
――だから、こういう時は。
「ツララちゃん、みーーつけた」
へらり、は笑った。
施術ベッドの上に放り投げられたタオル、脱ぎ散らされたスリッパ、ぶちまけられた文房具。
元は道路だったコンクリートの塊、壊れて燃えていくご近所さん方の看板、拡がっていく炎。
表の惨状と比べてしまえば、院内はむしろ綺麗過ぎるくらい無事だった。
……比べられるくらい、外の景色を見ることが“出来てしまった”。
何故なら、強化ガラスの窓が突き破られ、閉めたはずのシャッターが、ちょうど半分“めくれている”。
あちゃあ、と思っただけで、は顔にも声にも出さなかった。――なるほどヘドロ状だなあ、なんて考えられる程、頭は冷静だった。時間はなかった、けれど、急がない、急かさない。
努めていつも通りに振る舞うことが、今一番大切なことだと、にはわかっていた。
「お母さんとこ、一緒に帰ろっか」
わああん、わああん、ツララちゃんは泣き続けている。プレイマットの上に座り込んで、ともだちを抱きしめて、泣きじゃくっていた。
は、全体を見ながら、考えながら、動く。ツララちゃんは部屋の隅、怪我はしてない、めくれたシャッターと割れた窓ガラスの目の前、外では
の“個性”発動範囲は、そう広くはない。せいぜい、半径85センチ、この手の届く距離。間合いに入れて、止めなければならない。泣いているツララちゃんの、恐怖と不安を、無くしてあげなくちゃいけない。
シャッターは、“内側”から壊されていた。貫いているのは、氷の柱。
それがこの子の“個性”であることを、は、よく知っていた。
鳴り響くサイレン、叫び声、何かが燃える臭い。ともだちを迎えに来た彼女はきっと、怖くなって、パニックになってしまったんだろう。そして、部屋を壊してしまった。いけないことをしてしまった、わるいことをしてしまった――そんな気持ちでいっぱいになった、小さな女の子の“個性”は、
「ひっ、うっ、うう……ごめ、んなさ、い、ごめん、な、うわあああん!!」
暴発する。
彼女の体から氷の柱が、一斉に――目掛けて突き出した。
「……おりゃっ!!」
気合いと共には、迷わず左前方に跳ぶ。体をひねり、背中から壁にぶつかって、強かに打ち付けた反動を利用しながら、ツララちゃんの後ろに回り込む。
幼い“個性”は、まだ、たくさんの柱を作ることは出来ない。スピードも、どうにかこうにか、避けられた。少しかすった脇腹部分の白衣が裂けていたが、は無視した。
そして、背中からは出てこないことを、は知っていた。
“ないないするおにーちゃん!”
なんてったって、一番最初にこの子の“暴走”を止めたのは、他でもないだったから。
「だあいじょうぶ、“ないない”しようなあ」
ぴたりと氷柱は伸びることを止め、途中から、ぱきりぽきりと落ちていく。
後ろから抱きしめるかたちで、ツララちゃんの頭を撫でた。ひいやりとした何かが、体の中を駆け巡った。――爆豪の時は、熱かったもの。が“個性”を使う度に湧き上がる、不思議な感覚。
「めっ!」
叱責の短い声に、ツララちゃんはこっちを向いて、やっと目が合った。
「オニーチャン、これで保育士サンになれるかなあ?」
顔を覗き込んで、おどけたように言うと、
「……なれない……」
「えーーー」
返ってきた声は否定的で、見上げてきたツララちゃんは、泣き腫らした目で笑ってくれた。
「だって、おにーちゃんこわくないもん……」
「そっかあ」
首に回された手を受けとめて、ツララちゃんをしっかりと抱き上げる。背中をぽんぽんと叩いた。
「さあて、」
すぐにここを離れなければならない。迅速に行動しろ、絶対に客と命と財産を護れ。家訓は小さい頃から言い聞かせられていたし、身にも心にも染み付いていた。だから、避難どころか、囲って見物するような野次馬が嫌いだった。
それなのに。
行こっか、と、言おうとした口は、開いたまま固まった。
立ち尽くしてしまった。
確かに聴こえた。
そして見た。
「――――かっちゃん!!」
爆発音、硝子の割れる音、割れたガラスを走り踏む音、熱をはらむ空気の揺らぎ、黒煙、救援の声、救援の声、救援の声。そこへ駆け出した、見覚えのある――モジャモジャ頭。
うそだろ。
おそらく山ほどいるだろう“観客”の中で、ただ一人だけ、だけが正しく理解出来た。
誰が飛び出したかを。
誰が、誰を救けようとしているかを。
救けようとしているその誰かから、彼が今日、どんな言葉を浴びせられたかを。
「うわあああっ?!」
目を奪われたのは、時間にすればたった十数秒、しかし緊急下において致命的な一瞬。
窓が全て割れた。
同時に、がががごごごごどんがこん、と冗談みたいな音がして、半分めくれたシャッターが、今度こそ完全にめくれ上がった。
何が起こったのか、にはわからない。
凶悪な勢いで舞い込んだ突風に、体が浮き、文字通り吹き飛ばされた。
部屋中の物という物が飛び、ことごとく壊れていくが、には物理的に見ることが出来ない。間仕切り用のカーテンに突っ込むかたちになり、視界いっぱいが布で覆われていた。カーテンレールは全部折れていることだろう。凄まじい風圧は、全ての家具を壁際に押し寄せて――押し寄せ続けている。ベッドやソファに挟み込まれたは、全く身動きが取れなくなっていた。
――後で聞いた話だが、強烈な風、もとい衝撃波は、No.1ヒーローによるものだった。流動体で掴めない、ヘドロ状の
「お、おにーちゃん……!」
「だい、じょうぶ、だいじょうぶ……!!」
は、体を丸めて、ただひたすらにツララちゃんを抱きしめていた。押し潰さないように、押し潰されてしまわないように。
(覆えるくらいに育ってくれてありがとうおれの体!!)
首すら動かすことは叶わないが、どうにか必死に目をこらす。小さな彼女の体には、とりあえず大きな外傷はなさそうだ。
「ごめんなあ、オニーチャン、ちょーーっとぼけっとしてた……ごめんなあ……」
どれくらいの時間だったか。
壁すら一緒に吹き飛んでしまう前に、が圧死する前に。
風は、なんとかおさまった。
パズルのように積み重なっていた家具は、風が止むと重力に従って散乱する。わずかに出来た隙間から這い出たところを、
「!」
「ツララ!!」
二人の母親が、それぞれに迎えた。
――何度も何度も謝り続け、お礼を重ねる雪山さんとツララちゃんを見送った後で、
「ホウレンソウもなく勝手にどこ行ってんだバカ」
「ハアーイ……ゴメンナサーイ……」
お説教が始まる。
だが、どさり、は床に蹲った。
「あのさあ、後でちゃんと聞くから手当てしてくんない…………?」
今の今まで、吹き飛ばされてからずっと、笑顔で手を振ってお見送りするまで、マントのように翻していたカーテンを、するりと肩から外す。
真っ赤だった。
「そういうことはもっと早くに言うんだよこのバカ息子ッッ!!」
「だ……だってツララちゃんいたじゃーん……」
「それもそうさな、でかしたッッ!!!」
「いぇーい……」
ツララちゃんを覆えるくらいに育ってくれた背中は、じんじんと熱い。窓ガラスは割れにくく、また破片も出にくいような処理が施されているはずだったが、見る影もなく木っ端微塵だった。めっっちゃくちゃ刺さってんだろうなあ、とは思っていたが、顔にも声にも出さなかった。しかも、刺さったところをベッドだかソファだかが、ぐいぐいと圧迫してくる。めっっちゃくちゃ痛いから止めてほしいんだけど、とは思っていたが、顔にも声にも出さなかった。……たぶん。
「汀和呼んでくるから待ってなッ、動くんじゃないよ!!」
「うーーごけないってーー……」
もしかしたら骨にヒビくらいは入っているかもしれない。痛む体を無理やりに動かして、ぼろぼろの床の上であぐらをかいた。
「、」
「はいはい」
「はいは一回。とりあえず、“よくやった”」
「……」
「説教は後でな」
きっぱりと言い残して、母・入江は走っていった。
終わってみれば、まだ天井と壁は残っている。数日あれば通常営業も可能そうだった。シャッターが吹き飛ばなかったことが奇跡に思える。頑丈な金属製のシャッターは、横から見ればきっと「し」の字に近い。「大将、やってる?」とのれんをめくった、あの時のかたちにも似てる。
(……これはこれでなんかオブジェっぽい。インスタ映えはしなそー)
の疲れた体と脳みそは、そんなことを考えていた。
通りでは、警察とヒーローがせっせと行き交う。サイレンがごく近くで鳴っている。リポーターらしき人が被害状況を喋っている。カメラのシャッター音なんかも聞こえてくる。ニュースはたちまちに広まり、工事はすぐ始まるはずだ。
いつの間にか雨が降ったのか、外の地面が少しだけ濡れていた。
切迫した喧噪から、日々の喧噪へと移り変わっていく。
「…………おれ、」
だから、誰にも呟きを聞かれる心配はなかった。
「おれは、」
――“よくやった”? 誰が、何を。
あの瞬間。
立ち尽くしてしまった。 するべきじゃなかった。
確かに聴こえた。 聴くべきじゃなかった。
そして見た。 見なきゃよかった。
「――――かっちゃん!」
(うそだろ。)
そう、思ってしまった。
勝算なんてなかったはずだ。あるはずもない。“無個性”だから。
(だって、相手、爆豪クンだろ。)
そう、思ってしまった。
あんな仕打ちをされて。あんな言葉を吐かれて。
――それでも、緑谷出久は。
「はああ!? 緑谷あ!? ムリッしょ!!」
「勉強できるだけじゃヒーロー科は入れねんだぞー!」
「“将来のための……”マジか!? く~~~緑谷~~~!!」
「かわいそうに、中三になってもまだ彼は現実が見えてないのです」
「そんなにヒーローに就きてんなら効率良い方法あるぜ」
「来世は“個性”が宿ると信じて……屋上からのワンチャンダイブ!!」
――誰かを救けるために、駆け出せる人間だった。
「おれ、はっ……!!」
頭の中で、記憶が、思い出が、ぐるぐると嵐のように渦巻いていく。「はじめまして」「よろしくね」を、笑ったまま言ってくれた。「すごいね!」と“個性”を褒めてくれた。
初めて誰かに、ヒーローへの憧れを、夢を、話すことが出来た。
ともだちが欲しくて、さみしくて、かなしくて、でも自分には、どうしようもないことに、気づいてしまいそうな、六歳のあの頃。
「“無個性”が伝染る!」
「デクが伝染るぞー!」
「あっち行けよ無個性コンビ!」
「――僕と一緒にいるせいで、君まで笑われて、ごめん」
結局、ともだちになれなかった相手は。
憧れを、体現していた。少なくとも自分には、そう見えた、映った、鮮烈に。
自分はどうだ。
勝手に胃を痛めて? 降りかかる嘲笑を無くすことも出来ないで?
ともだち一人もつくれない。
ともだち一人も庇えない。
「おれは、ヒーローに、なれない……!」
差し込んだ夕日が、の泣き顔を照らす。
――あまりにも眩し過ぎた。
“無個性”の彼は、あの場の誰よりも、ヒーローだった。