磨いて掴め
08
小さい頃に死んだ父のことは、顔も声もおぼろげで。顔を思い浮かべようとすると、写真立ての笑顔にすり変わってしまう。
最初に思い出すのは、背中だった。
「おとーさんの“個性”はな、と一緒だよ。“無くせる”んだ」
傷だらけの大きな背中。
「ああああぁ泣くな泣くな、だいじょぶだいじょぶ! オレはもう痛くないから、なっ?」
風呂場で泣いてしまったおれに、父は困ったようにおろおろしていた――ような、気がする。
「ともだちの“個性”、無くしちゃったかー。もびっくりしたな。少しずつ、使えるようになっていこう。だいじょうぶ!」
やさしい性格で、たくさん、あやしてもらったらしいけど。
「でも、そうだな。無くしてるんじゃなくってさ。お前はオレの子だから、もしかしたら――」
残念なことに、おれはなんにも覚えちゃいない。
早朝、6時。
太陽が昇り、空の端が金色に縁取られた。大きく息を吸い込むと、ひいやりとした冷たい空気が肺に満ちていく。
その場で何度かジャンプして、前屈、後屈、上体回し。
「おっし」
軽く準備体操を終えると、はゆっくりと走り出す。
「オハヨーゴザイマース」
爽やかな朝だった。
開店準備には早すぎる時間だが、一切人気がない訳でもない。二軒先のおばあちゃんは朝の散歩が日課だったし、犬の散歩をする飼い主や、と同じようにジョギングする人も見受けられた。
「おはよう、ずいぶん早いねえちゃん」
「ああさんとこの。おはようさん」
「ウォンッ!!」
すっかり元通りになった商店街ですれ違う人々は、大体が顔馴染みだ。挨拶と会釈を繰り返しながら、まずは商店街の端――Mt.レディは入れなかったらしい、看板の所――まで走り、折り返す。家の前まで戻ると、また折り返す。つまり商店街の端から端をコースとして、往復していく。
「あらあら、頑張るわねえ」
「ん? ポチも一緒に行くか?」
「ワン!!」
もっと大きな繁華街であったら、の息はとっくに切れていたかもしれない。しかし、連なる店舗、そこに住んでいる家族構成すら網羅しているにとって、田等院商店街はあまりにも身近過ぎたし、手狭だった。だから何度も往復して、距離を稼ぐ。
「おっさんとこの坊主!! 朝から元気だな!!」
「わはは、ハナコも行ってこーい」
「ゥワッフ」
体が温まってきたら、商店街の真ん中――修繕済の時計台の辺り――を目安に、全力疾走。端までたどり着いたらペースを戻し、ゆっくり走る。時計台に差し掛かるタイミングで、また全力疾走。ジョギングとランニングを交互に繰り返すことで、体に高負荷をかけていく。
「だあーーーーキッッッツ!! 今朝の分おしまーーい!!」
持久力や心肺機能の向上を目的としたトレーニングであって、
「ワンワンァ!!」
「お……おしまい!! おしまいだからァ!!!」
「ワフワフワフワゥフウォッフ」
「いやおねがい待っ」
「ワンワンワンワンワンワンワンワンワンワンワ」
決して――決して、ご近所中の愛犬たちと遊ぶ為のものではない。
徐々に速度を落とし、息を整えてから足を止めたが、ポチとハナコとジョンとラッキーとレオンとシロとリクとダイキチに飲み込まれるまで、あまりにも一瞬だった。
「くんモテモテだな」
「うちの子もあんなに懐いてうふふ」
「ちょっ……、たすけ……、ぶぇ」
誰かトメテェ?!?!
の叫びは、ンベベベベベベと高速で舐めてくるお犬様にかき消される。
……爽やかな、朝だった。
「こら遅いぞ、先生と同着とは何事だ」
「やーーーちょっとポチとハナコとジョンとラッキーとレオンとシロとリクとダイキチに飲み込まれたもんでしてーーー」
「…………そうか! 今度は飲み込まれないといいな!」
担任の先生は深く考えるのを止めたのか、適当に会話を打ち切った。賢明な判断である。が着席すると、ちょうどチャイムが鳴り響いた。
風呂場で体と一緒にジャージも洗って干し、「ちゃんと食べないとちゃんと治んないからね!」と言うのでちゃんと朝食を食べれば、あっという間にいつもの登校時間は過ぎていた。可笑しい。元から汗を流す予定だったが、何故涎と毛玉も流す羽目になったのか。
(もうちょい早く起きっかなあ)
欠伸を噛み殺しながら、は鞄から手帳を取り出した。手帳は薄くてぺらぺら手のひらサイズ、月ごとのカレンダー、巻末の数ページが白紙のメモという簡素な作り。教科書の下に半分隠すようにして開き、今日の日付に星マークを書き込んだ。今朝のメニューは少し間隔をあけて、週に二回程行っていく。明日は筋トレを中心にする予定だ。
『“個性”の本質、実用性、運用方法、超過による身体的負担、己の身体能力、その他全てを加味した上で諦めろ』
……一字一句、思い出せた。手帳に、文字として書き記す。
『諦める理由に他人を使うな』
言葉を、何度も噛み締めた。
二日前。
三度全力疾走し、背中に硝子が突き刺さり、
「――――かっちゃん!!」
心は一度ぽきりと折れた。愕然と、まざまざと、見せつけられた。
何が人を、ヒーローたらしめるかを。
「ヒーローに“なれない”なんて台詞は、ヒーローに“なりたい”奴しか言わないよ」
けれど、すくい上げてもらった。それどころか、「ほんとう」を引きずり出された。
自分が、なりたかったものを。
きっと、どちらが欠けても、始まらなかった。
「アンタはもう、ずっと前からヒーローさ」
目まぐるしく、全てが始まった。
……始まっただけ、とは思う。人は、すぐすぐ変わったりしない。ヒーローにおあつらえ向きの素晴らしい“個性”が目覚める訳でもなし、母親にさえ劣る体力が一夜にして目覚ましく向上する訳でもなし。
それでもの“世界”は変わった。変わってしまった。そうして変わる前には、決して戻らない。
だからこそ――変えていかなくちゃ、いけない。
「お前~、遅刻ぎりぎりだったじゃん」
「怪我って聞いたけど、もう大丈夫なの?」
休み時間、声をかけてくれたクラスメイトにはへらっと笑い返す。
「心配アリガトーネ! もうだいぶ良いし、あんま休んでらんないし、来ちゃった♡」
「来ちゃった♡じゃねーよ! まあ元気そーで安心したわ」
「お大事にねー」
もうだいぶ良いのは本当だった。胃は貧弱だったが、元々体は丈夫な方である。以前にも「遺伝したんだねぇ」と母が言っていた。
亡くなった父は傷を負っても治りが異様に早い“体質”だったらしく、姉弟共に引き継がれている。全治二週間と診断されていたが、その“体質”と姉が何回も“個性”を使ってくれたおかげで、首に痣は残っていないし、背中の傷もすっかり治っていた。
それでも姉はもうしばらく休ませたがったのだが、なんせには“時間がない”。
「ねえねえちょっと手ぇ貸してくんない?」
「あん? なんで?」
「ん~~~マッサージの練習?」
「なんで疑問系よ」
訝しみながらも手を出してくれるクラスメイトの手を(こいつ良い奴だな……)、は遠慮なく掴む。親指と人差し指を使って、相手の指を根元から一本ずつ、丁寧に揉みほぐしていく。爪の生え際は摘むようにして、少し強めに押して刺激する。
「えっめちゃ気持ちいいじゃんなにこれ……」
「お客サン凝ってますネーーー」
「何してんのそこ」
「あー、ん家ってマッサージ屋だっけ?」
「田等院商店街整骨院をヨロシクオネガイシマース!」
「宣伝入った」
マッサージ屋ではもちろんないが、幼い頃から何かと仕込まれていて、母や姉相手に(半ば強制的に)幾度となく行って来た実績がにはある。
水かき部分を丁寧にほぐしたり、手のひらのツボをごりごりと押しながら「いでえ!!」「凝ってますネーー」黙々とマッサージを続けた。
「ハァイ、おしまーい」
「せんせーあざーす!! ヤバ手ぇめちゃ軽」
「えー俺も俺もーーー」
「今日は閉店デーース」
壁にかけてある時計をちら、と盗み見る。だいたい5分程度。ぎゅっと握って、開く。今しがたクラスメイトの手を揉みくちゃにした自分の手。
「なるほどねえ」
「練習になったのかよ」
「なったなった! アンガトネー」
本当に練習したいのは、もちろんマッサージではない。
触れている間、はずっと“個性”を発動させていた。つまり、相手の“個性”を、5分間ずっと無くしていたこととなる。
クラスメイトに気付かれた様子はない。
「いや……ほんっっと……アリガトーネ……」
「えっ何……怖……どういたしまして……?」
訝しみながらも応えてくれたクラスメイトを(こいつ良い奴だなあ……)、は遠慮なく拝む。拝んだところで予鈴が鳴った。
始まった授業そっちのけで、はノートにまとめていく。
(相手が発動型の“個性”だったら、発動させてない時は、無くしてても気付かれない……のか? うーん?)
髭面ヒーローに言われたことを反芻し、はまず二つ、やることを決めた。
一つ、出来る限り体を鍛えること。
どこをどう鍛えればいいか、何をしたらいいかなんて素人のにはわからない。運動神経はそう悪い方ではなかったが、体力不足の実感をしたばかりでもある。
(かーさんに負けてるようじゃまあヒーローにゃあなれないよなあ)
体力や筋力が付けば、やれることが増える。やりたいことが増えても、出来るように。
二つ、自分の“個性”への理解を深めること。
本質、実用性、運用方法? “個性”を使いすぎたら熱が出るなんて、この前初めて知った。どれくらいの時間だったら“個性”を発動し続けられるのか? 発動系ではない、常時影響のある所謂『異形型』の“個性”にはどう発動するのか? 発動範囲は拡げられるのか? どうすれば、もっと効果的に“個性”を使えるようになるのか? わからないことばっかりだ。だってほとんど、頼まれた時にしか使わなかった。
中学三年生・十四歳の今になって、生まれて初めて、は自分の“個性”と向き合おうとしていた。
時を同じくして、同じように何かと向き合おうとしている人間がいたのだが――、
「それにあの……は特定の部位を鍛えるとかじゃなく……万遍なく……とてもじゃないけど間に合わないぞ……」
「あらゆる状況にも……身体づくり……まさに……になる為の……」
「……もつきっきりで……わけじゃない……出来る限り……自主トレ……追いつけるはずが……寝る時間……」
ブツブツブツブツブツブツブツブツ。
――残念ながらそれは、聴覚情報としてクラス全員に届いたものだった。
「緑谷オイ。
「ノイローゼ? もう?」
「こえー」
これまで何度も何度も目撃している、考えていることが延々口からダダ漏れという緑谷の悪癖。何かに熱中すると考察しないと気が済まない質なのは百歩譲っていいとして、
「…………(なんで口から飛び出しちゃうかなあ!?)」
自分のことでもないのに、はうぐぐとその場の空気に耐えた。そう、耐えられたのだ。隠す気のない笑い声にも、の胃はあんまり痛まなかった。もちろん、
(ほんっっっとお前そういうところだぞ!!!!)
とてつもない居た堪れなさはあったが。
“静かだった”から。
ちら、と様子を伺ってみても――爆豪は我関せず、ただ頬杖をついているだけ。
うーーわーーー。
爆豪クンがキモチワルーーイ。
……声にしたら絶対にブチギレられる感想を、当然ながら飲み込んだ。
後から聞いた話だったが、
は思いを馳せた
誰もが立ち尽くしていたあの場所で、救けに走り出した人間が、他の誰でもない、緑谷出久だったことを。
爆豪勝己がどう思い、どう考え、どんな気持ちになったかを。
“一線級のトップヒーローは大抵、学生時代から逸話を残してる。”
“俺はこの平凡な私立中学から初めて! 唯一の! 「雄英進学者」っつー箔をつけてーのさ。”
ゆっくりじっくりたっぷり想像して、
(ザマミロ)
気付かれないように一瞬だけべっと舌を出した。
昼休み。
ふんふんと鼻唄交じりに廊下を歩く、いつもより足取りが軽く感じる。向かう先は職員室。
(おれ、ちょーーっと浮かれてんのかも)
こんなに胃が穏やかな日が今まであっただろうか、いやない。
あの調子の爆豪ならしばらくは大人しいだろうし、もしかしたらずっとあのままかもしれない。それはそれでキモチワルイのだが、煮え滾るような胃痛から解放されると思うと、スキップの一つもしたくなってしまう。
もう始まってしまった世界の一歩を、は踏み出していく。
「せーーんせーー! 進路希望のプリント出しに来たんですけどーーー」
ザマミロついでじゃないけれど。
少し皺くちゃになったプリントには、「雄英」の二文字を大きく殴り書いてやった。
春真っ盛り、暦は四月。
控える入試は二月末。