磨いて掴め

13


「――いくつか条件を出すからよく聞きな。条件一・まずはしっかり背中の傷を治すこと。条件二・走り込みやトレーニング等は、必ず大人の目が届く場所で行なうこと。条件三・やるからには全力でやること。わかったかい?」
 母がにいっと快活に笑った。
「わかった!!」
「……わかりたくない」
 姉の汀和が、即答するを否定するように呟く。じっと床を見つめて、唇を少し噛み締めていた。
「ほんとうに、わかってんの? ヒーローは……ヒーローは、“当たり前じゃない”んだよ!?」
「汀和」
 咎めるでもない、ただ静かな声で入江が呼ぶ。拳を握り、立ち尽くしたまま震える娘の頭を、力強く自分の肩に押し付けた。汀和の涙で、白衣が濡れていく。
「アタシも汀和の気持ちはよぉくとわかるさ。もちろん、アンタもね。そうさ、“アタシ達はよくわかってる”。それでもアンタは、ヒーローになりたい。決めたんだろ?」
 自然と、写真立てに目がいった。小さい頃の家族写真、そこに並ぶ、父の笑顔。
 無下野家の“ヒーロー”は、人を救けるために、命を落とした。
 父・善者の“個性”は、『献身』――人の傷と痛みを預かれるその力を、マスコミが、世間が勝手にそう呼んだ。自宅にも記者が押しかけ、結局引っ越しせざるを得なくなったと聞いたのは、いつだったか。
 五歳だったは当時をほとんど覚えていなかったが、汀和には忘れることが出来ない。
「立派な最期“だった”」「素晴らしい人“だった”」……だいすきなお父さんを褒め称えられ、急速に“過去”とされてしまった苦い記憶。
「“命を懸けて誰かを救けることを、当たり前だなんて思うんじゃない。”……だろ」
 何度も何度も、繰り返し母に言われてきた。「立派」で「素晴らしい」とされるヒーロー達が、いかに常日頃、命の危険と隣り合わせでいるか。きっと皆、知っているようで、忘れている。
 ヒーローがヴィランと戦うなんて、“当たり前”だと思っている。
 だから野次馬になれる。首を伸ばして、手を伸ばして、スマフォを構えて、事故・事件を取り囲み、エンターテイメントに仕立て上げ、ヒーローたちを“消費”する。
「わかってる。わかってるよ、かーさん。……ねーちゃん」
 いつでも覚えていて、と、母は子供たちに願った。
 誰かを救けるために、命を懸ける人間がいる。自分が愛した男と、同じように。
 ――アタシはアンタに、それが“当たり前”だなんて、思って欲しくないからね。
 ――ヒーローの命を、軽んじるんじゃないよ。
 ヒーローを目指す。
 それがどんなに危険で、困難なことか、ずっと前から知っていた。
 それでも、
「ねーちゃん、聴いて。かーさんも。おれね、ずっと、なりたかったって、気づいたんだ。気づかせてもらった」
 名前も知らない髭面のヒーローの、にやりと笑った顔を思い出す。
「……来ただけで、皆が安心出来るような――そんな、ヒーローに、なりたい」
 昔むかし、たった一人にだけ伝えた憧れ。
 家族に向かって口にすると、自分にも染み入るように響いた。
「“私が来た”っていうアレかい? ま、折角目指すんならそんくらいじゃないとねえ!」
「おわっ?!」
 入江は豪快に笑っての肩を抱いた。片方の肩はもちろん汀和に貸していたものだから、勢い余って小さな円陣を組まされる。
 そこで、泣き腫らした目に睨まれた。
「……今日こんだけ心配かけたのに、また心配かけるんだ?」
「うん。今のおれじゃ、心配しないでって言えないし、説得力なさすぎだし。……今すぐには無理だけど、」
 きっぱりと言い切った。
 だって姉は、過保護で、何よりも家族が大切で、心配性だから。
「いつかねーちゃんも安心出来るような、ヒーローになるよ」
「ほんとに……ほんっと……馬鹿……」
「……応援してくんない?」
 眉毛を八の字にして下手くそに笑えば、大きなため息が返ってくる。
「……………………するよ、する、その代わり、めっちゃくちゃに応援するからね、覚悟して。あと、わたしより先に死んだらコロスからね!」
「うん。うん……? ……うん、わかった」
 滅茶苦茶な言い分に、は何度も頷く。
 娘と息子のやり取りを、入江は笑顔のまま黙って聞き遂げた。
「さあさ、今日はもうお休み。お疲れさん。よくと寝るんだよ」
 両腕に抱えた子供たちの頭を、母はぐしゃぐしゃにかき撫ぜる。

 “ヒーロー”を目撃した日。
 ヒーローに救けてもらった日。
 ――全てが変わってしまった日。

 早朝6時。
 はいつものように準備体操をし、商店街をジョギングする。ハードなトレーニングは控え、あくまで体を温めるために。吐く息は白く、頬や耳はきっと寒さに赤くなっているだろう。雪降んなくてよかったなあ、と入者は思う。
 不思議と、気持ちは落ち着いている。
 目を覚ました時にはもう母と姉――あの朝の弱いねーちゃんが!――は起きていて、自分の朝食と弁当を作ってくれていた。ありがたい。
「頑張れよー!!」
「よっ田等院商店街の星!」
「アンガトネー!!(星……?)」
 顔馴染みが何人も、走るに激励の言葉を投げかけてくれた。
 があの名門を目指しているらしい――とっくのとうに話は広がっていて、それはそれは山盛りのお守りや差し入れを、一人じゃ処理し切れないほど頂いていた。
 他にも例を挙げればきりがない。使っていないトレーニング器具を頂戴したり、商店街のツテで先生を紹介して貰い、簡単な体術を教わることも出来た。ありがたい。
(これからもずっと)
 なんとなく、実感があった。
(ありがとうばっかなんだろうな)
 いつか感謝を、たくさんの恩を返す日に向けて。
 まずは、最初の一歩。
「今日だよな!?」
「そー! 今日!」
 拳を突き上げて、は笑って応えた。
 あの日から、10ヶ月。
 2月26日。
 受験当日の朝を迎える。