上澄み
「なにを、されたの」
「……テメェに言うかよ」
「なにを、されたの」
「いたかった?」
「いたかったよね」
「いたかったよね……」
それきり、ニンゲンは黙り込みました。
しいん、と。辺りは、静まり返ります。
「――うるせェ」
けれど、悪魔は、ぐしゃりと顔を歪めました。先程の高笑いは、どこかへ消え失せていました。威嚇する獣のように、歯を食い縛り、低く低く、唸ります。
ニンゲンは黙っていました。
「うるせェんだよ!!」
だん! 鈍く重い音が、床を軋ませます。悪魔がニンゲンを、突き倒した音でした。ベッドから降りた勢いのまま、骨張った肩と、首輪の嵌る首を、押さえ付けました。悪魔の尖った爪の先が首筋を傷つけて、赤い血が音もなく、静かに流れていきます。至近距離から見るニンゲンの顔は、涙で前髪が張り付き、乱れ、ぐちゃぐちゃで、汚くて、やっぱり見るに堪えないものでしたが――これで、何回目でしょうか。
悪魔とニンゲンが、目を合わせるのは。
ニンゲンは黙っていました。
黙って、悪魔の赤い瞳を、見つめていました。
「黙りやがれ……!!」
まるでなみなみと“それ”で注がれたかのように、鼓膜までいっぱいに埋められて、酷い耳鳴りが頭を揺さぶります。
怒鳴りつけるために開いた唇の舌先さえ、塩辛い味を感じた気さえしてくるのです。
反響する「感情」は、いよいよ絶叫にすら思えました。
――かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、にくらしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、――かなしい!!
激流は部屋を埋め尽くし、悪魔を、魂を、巻き込んで。
世界を、たちまちに青くしていました。
こんなにも、涙がにおう。
「ッんで俺が、ニンゲンごときに同情されなきゃなんねェんだよッ?!」
「ちがう」
ぎりぎりと首を絞められながら。
音もなく、静かに涙を流しながら。
ニンゲンは、言いました。
は、言いました。
「ちがう」
吐息すら感じるほど、すぐそばに、悪魔の顔があります。吊り上がった赤い目が、を射抜いて、射抜かれて、(あ、わたし、今、)――は一度、死にました。
心臓に深々と刺さったそれは、もう二度とは、抜けないことでしょう。もう二度とも、抜けないことでしょう。
「わたしが、かなしいんだよ」
「同じだろうが!!?」
「ちがう――違う!!」
「?!」
途端に、悪魔が――ほんとうなら、簡単にを殺すことの出来る悪魔が――絞めた首から手を放してくれていました。当然、放したくて放したわけではありません。まさか悪魔も、思ってもみなかったのでしょう。
「わたしが――“わたし”が、かなしいんだよ!!」
どこに、そんな力が残っていたのやら。
死にかけの、痩せっぽっちで、簡単に押し倒されていたが、額と額を強かにぶつけながら、悪魔の胸元にむしゃぶりついたのです。
どくり、どくり。
叫べば叫ぶほど、体のすみずみまで、血が通っていくようでした。たった今まで、ただぶら下がっていただけの頭が、四肢が、“わたし”だったことを、ようやく知ったみたいに。
「誰にもあげない!! この気持ちは、わたしだけのものだ!! かなしくて、かなしくて、憎くて、たまらなくて、――喉が渇いて死にそうになる!!!」
は夢中で手を伸ばし、がむしゃらに悪魔の白い頬を捕まえて、額と額を無理矢理に、がちりと、合わせました。
「やめろ、クソッ、じゃあ死んじまえ!!」
「やだ!!!」
「あァ?!」
――血だらけの悪魔。
――傷口のない場所が、いっそ無いと判断した方が清々しいくらいの身体。
――切り取られた痕のある翼、尻尾。剥がされた爪。
――そこに何か、きっとあったはずなのに。
――まあるく、くり抜かれた、空っぽの額。
嵐のように駆け巡った心は、決して消えたわけではありません。今もなお、恥ずかしくて、情けなくて、許せなくて、死にたくて、還したくて、かなしくて、憎らしくて、体中の水分が干からびてしまうまで、涙が止まることはないでしょう。は深く深く、もう二度とは浮かびあがることも出来ないところにいました。
けれども、凪いだ心にたった一つ、浮かんだもの。
「殺そう」
全部、全部、自分のために。 決して、悪魔のためではなく。 そうしたいと思った、自分のために。
「ぜったいに、殺そうね」