たったさっきまで、部屋はかなしみで満ちていて、塩辛い海に沈んでいましたが、今度こそ、辺りはしいんと静まり返っています。
 悪魔は、ベッドを背もたれにして、床に座り込んでいました。隣に転がしたニンゲンは、ぴくりとも動きません。横たわった体から、血のにおいがしました。
 悪魔の爪の先には、ニンゲンの血がこびり付いています。首を絞めた時に付着したものです。殺すのは簡単でした。絞めあげて、窒息させるより早く、首を爪で突き破れば済む話でしたから。ですから、部屋にはおびただしい量の血が――流れていませんでした。
 チッ、と舌打ちが一つ。
「ガキかよ」
 寝息は規則的なもので、先ほど乱暴に退かしたばかりでしたが、ちっとも起きる気配はありません。首筋には、爪が刺さった小さな傷口がいくつもありましたが、もちろん致命傷に至ることもなく、細く流れた血はもう乾いていました。一晩中寝顔を見られていたなんて知る由もなかったので、悪魔には単純に、泣き疲れて寝てしまったように見受けられました。実際は寝不足と――単純に泣き疲れて寝てしまったのですが。
 結局、殺し損ねてしまったのです。
 悪魔ともあろう者が。
 悪魔の傷を、血を、かなしんで、かなしんで、かなしんで。悪魔を傷つけ、血を流させた者へ、憎悪を抱き、殺意を抱き。
 悪魔へ縋りついて泣き喚いて泣き疲れて、あげく――そのままことんともたれかかって、寝始めた、不愉快で不可解で気色の悪いニンゲンを。
 すっかり、殺し損ねてしまったのです。
「……ケッ」
 可笑しな光景でした。
 小さな狭い部屋で、一人と一匹が、泣いていました。
 泣いているように、見えました。
 至近距離で泣き喚かれたせいでしょう。飛び散った一粒が、悪魔の頬を濡らしていました。
 決して、悪魔の瞳は、潤んではいません。決して、悪魔の瞳が、潤むようなことは、あってはなりません。あり得てはならないことです。理由もありません。
(いたかった?)
(いたかったよね)
 施しも同情もまっぴらごめんでしたし、自分から泣かしにかかるならまだしも、自分を想って泣かれるなんて、居心地が悪いだけでした。吐き気すら覚えてもいいくらいです。
(殺そうね)
(ぜったいに、殺そうね)
 けれど、頬の模様をころりとなぞり、落ちていった水滴に、誰が気づくというのでしょう。
 誰がいつ、流したものかなんて、誰がわかるというのでしょう。
 涙の痕が、一人と一匹の頬の上に、在りました。 


 ――よく寝た!
 の覚醒した意識が、快眠を告げました。ううん、と腕を伸ばせば、肩は軽く、お腹がきゅるる、と鳴きました。
「うわっ!? ……びっくりした……鳴った……」
 そっか、お腹は鳴るものだったっけ。そんな当たり前の感覚すら、ずいぶんと忘れていましたので、は思わず両手でお腹を押さえます。何にも入っていない空っぽの胃袋も、ようやく目が覚めたのでしょう。お腹空いた、なんて、久しぶりに思いました。百年ぶりに熟睡した気分です。鏡を見る度、どんよりと充血していた瞳も、今ならきらきら輝いていそうです。そう、きらきら輝いて――、
「えっ? あれっ、……あれ? え!?」
「ッるせェ」
「いだっ、わあーーっ!?!?」
 ――鮮やかに、色づいていました。
 薄いレースのカーテンは、上品なベージュ。高い天井と、床と、壁は、落ち着いたチョコレートブラウンで纏められています。アクセントとして、深緑や薄緑、グリーン系の模様が走っていました。ベッドと、椅子と、机と、本棚は、同じ木を使っているのでしょう、重厚感のあるマボガニーカラーです。揃いで作られたらしい、深い蒼のベッドカバーと絨毯は、銀の糸で細やかに刺繍が施された、うつくしいものでした。それから――机の上に、ミルク色をした、新しい植木鉢が乗っています。
 それが、ほんとうの色でした。
 みんなみいんなしろかった、の目に、色が、戻ってきていました。
「おっおはっ、おはよう?! うわあなにこれすごい! 眩しい!! きれい!!!」
「だァーーッ!! うるせェッつってんだろ!!」
「いだだだいだいいだいごめんなさい?!」
 さっきからべしんべしんと叩いてくるのは、他でもない、悪魔です。ベッドに腰かけて――依然床の上のより、よっぽどこの部屋の持ち主みたいです――尻尾だけこちらに寄越して、鞭のように遠慮容赦なく頭や手足のあちこちを叩いてきます。ものすごく痛いです。はすぐさま涙目でした。攻撃が止むと、大きなため息が聞こえました。
「おい、ニンゲン」
「あっはい?!」
 悪魔の声に、は背筋をぴんと伸ばし、自然と正座になってしまいます。
「……“アイツ”を、ゼッタイに殺すんだな」
「うん」
 躊躇いのない返事でした。
 は、真っ直ぐに見上げます。
「(――きれい)」
 最初からずっときれいでしたが、色のあふれる世界でも、悪魔は、とても、きれいでした。
 睨め付ける赤い瞳も、尖った耳も、白い頬に刻まれた模様も、時折羽ばたく翼も、自在に動く尻尾も(たくさん叩かれても)。とてもとても、きれいでした。
 起きた時――自分がまだ生きているとわかった時、は、“”になりました。
 だって悪魔は、殺せたのに。
 何回でも、何十回でも、こんな自分を、殺せたのに。
 そうしなかった。されなかった。
 だから――こんなに変てこで、狂っていて、どう考えても可笑しい世界に在ることを、やっと、受け入れられたのです。
 の心は、肉は、魂は、決意と殺意を核として、“ニンゲン”で在ることを、選んだのです。

 悪魔は、首を見ていました。いくつもあった小さな傷は、もう一つもありません。首輪も、既に外されていました。植木鉢を持ってきた少年が、「そっか」と呟いて、持ち去っていったのです。「もう大丈夫――たぶんだけどね」ニンゲンはまだ、気づいていないようでしたが。
 少年――悪魔には得体の知れないイキモノに見えました――は、こうも言い残していきました。
「彼女の喚び方はデタラメだからね。逆も、そうだろうねぇ」
 ――そうだね、たとえば、きみが隠してるそれがあれば、きっと。

「だあああああッ、イラつくうううッッ!!」
「ひえっ!?」
 いきなりバリバリ頭をかきむしる悪魔に、肩がびくりとはねました。
「っわ、わ、」
 突然投げられて、思わず捕まえたのは――そう言えばどこにも見当たらなかった――紫の石。
 石はもう、熱をはらんでいました。
 手の中が、太陽を手に入れてしまったみたいに、熱い。
「……ケッ、やっぱりか。魔力だけは一丁前にありやがんだなァ」
「これ、これって……?」
「……テメエが、俺を喚び出しやがった石だ」
 見間違いようもない。のしろい世界に、色を運んでくれた、鮮やかな紫。
 そこに、見覚えのない刻印が、されています。この世界の文字は、にとって、ミミズの集合体でしかありません。もちろん読み上げることも出来ません。なのに――それが何か、にはわかりました。はっきりと、わかりました。
「せいぜい失敗しないように祈りやがれ」
「……うん!」
 やり方は、わかりません。
 ですが、悪魔が自分にやらせたいこと。そして自分が悪魔にやりたいこと、ならば。
 ――やれない方が、可笑しい!
 ぎゅっと胸に抱きしめると、しゅるんと風が舞い、ぐるぐると部屋を暴れ、やがてそれは。
 嵐になりました。
 光は石を中心に、まばゆく、鮮烈に膨れ上がっていきます。紫の光。――いつか臨んだ夕焼けの端、目覚めはじめた夜の色。
「勘違いするんじゃねェぞ、俺はテメエを主人と認めたわけじゃねェからな!」
「う、うん? ――うん?」
「テメエなんざいつでも殺せるし、今すぐにでも殺れんだよッ!!」
「うん!!」
「喜んでんじゃねェよ気色悪ィんだよテメエはッ!? いいか、よく聞け」
「うん」
「テメエは、俺を還す」
「うん」
「“アイツ”を殺す」
「うん」
「俺にも殺らせろ」
「うん」
「――……たら、……いい」
「うん?」
「…………」
「……ううん?」
「……テメエ、死にてェんだろ?」
「……うん」
「そしたら、殺してやってもいいぜ。……感謝しろよな」
「……うん。ありがとう」
 刹那、刻印の文字が強く光った光景を――誰も見ることは出来ませんでした。
 ぱくり、
 ごくん。
 悪魔の魂に巻きついていた、“二本”の鎖は、そんな風に。
 が、飲み込んでしまいました。

 光と風が治まった小さな部屋は、ずいぶん酷い有様でした。本棚の中身が全て飛び出て落ちています。棚を壁に固定していなければ、倒れていたことでしょう。可愛らしい花を咲かせていたはずの植木鉢は、無残にもひっくり返り、土がこぼれていましたが――割れてはいませんでした。それから悪魔が一匹、姿を消していました。
 まだ熱を帯びる石を、そっとつまんで、は、唇を落としました。
 これ以上のない、宝物に。
『気色悪ィことしてんじゃねェよ』
「わあーーーっ!?!?」
 石から聞こえてきた声に、は叫んで驚いて、悪いことに散らかった本を踏んでまたもや床に転がりました。手に握った石だけは、しっかりと死守して。
『だからテメエは一々うるせェんだよ俺様に何回同じこと言わせんだ?! あァ!?』
「だだだだだって喋るとは思わなくてっていうかえっ!? 見えるの?! えっち!!」
『ハァ!? だァれが好き好んでテメエみたいなガキ覗くかよ死ね!!』
「やだー!! 殺されるまで生きる!!!」
『殺すぞ』
「ごめんなさい」
 ――可笑しな光景でした。
 小さな狭い部屋で、一人と一匹が、言葉を交わしています。
 楽しげに、言葉を交わしているように、見えました。

「……ありがとう」
 何のお礼なのかは、一人にも、一匹にも、わかりません。
 それでもは、噛み締めるように、言うのです。
 刻印を呼んでも、返事はつれない、一声だけ。

「ありがとう、“バルレル”」
『――ケッ』