いびつな衣食住のはじまり
――食事と睡眠について。
「きみの体は、すっかり衰えている。栄養も睡眠も不足した状態じゃあ、召喚師どころか、普通の人間ですら殺すことは難しいよね」
――適度な運動について。
「体力と筋力は絶対的に必要ではないけれど、あるに越したことはないし、今のは、足元も覚束無いだろう? そんな調子じゃ殺す前に殺されちゃうよ」
――勉強について。
「それから当然、きみはリィンバウムについて何も知らない。文字はおろか、街の名前や、その辺に咲いてる花さえも。殺したい対象に近づく為には、最低限の知識は不可欠という訳さ」
エクスの説明は、至極単純なものだった。
バルレルは『いや何言ってんだニンゲンの殺し方を聞いてんだろうが流石に馬鹿にし過ぎだろふざけてんのか』と思ったが、思っただけで言わなかった。
そしては、
「た……確かに……!!」
『テメェ馬鹿か?』
思いっきり真に受けて、バルレルは思わず声に出した。
「えっなんで馬鹿にされたの今!?」
『あァ!? それがわかんねェから馬鹿だって言ってんだろうが馬鹿かテメェ』
「に、二回も言われた……」
バルレルに怒られていることだけはわかったは、握り締めていたサモナイト石をおずおずとはんかちの上に戻す。
「そりゃあ直接的な方法ではないけど、まずそれ以前の話だからね。あの救急箱も重かっただろう?」
「う。うん……」
思い切り床に中身をぶちまけたことを思い出し、は渋い顔をする。
――エクスには検討がついていた。普通、いくら軟禁されていたにしろ、短期間であそこまで極端に体が弱まることはない。何せ、気持ち一つで存在が揺らぐ、不安定な肉。元の世界に還れない絶望。生きることへの無気力さが、そのまま彼女を弱体化させていたのだろう。
(ずいぶん貧弱になっちゃったなあ)
ひと月あまりで筋力がどれほど衰えるか全く検討もつかないは、(筋トレがんばんなきゃ)と握り拳をつくった。
エクスの言う通り、今のままでは召喚師を殺すなんて、夢のまた夢だ。結局昨日は吐いてしまったが、今朝は一生懸命に食べたおかげで、体調は悪くない。泣き疲れて久方ぶりに熟睡出来たのもよかった。それでもまだまだ、何もかもが足りない。
ちゃんと寝て、食べて、動いて、考えて、覚えて、それから、殺す。
目的を前に、の世界はちかちかと明るかった。
「あとは、身なりを整えることも大事ですよう? 明らかにみすぼらしい格好じゃあ目立っちゃいますし」
「た、確かに……えっ?! 誰!?」
初めて聴く声なのに、あまりにも自然では頷いていた。
驚いて振り向けば、そこには陽気な笑みを湛えた女性の姿があった。
「はい♡ 私はエクス様のお抱えエージェントのパッフェルと申します。こうしてお会いするのは初めましてですね~」
「は、はじめまして……??」
手を取られてぶんぶんと握手をされる。こうしてお会いするのは? そもそもこの世界に喚ばれてから、エクスとバルレル以外の存在と対峙したことがないのに。どうやら一方的に知られているようで、はますます混乱する。
(だってこの人、全然気配なかったよ!?)
「というわけで、髪を整えてからお着替えしましょうね! ささっ様こちらへ!」
「様?!」
「前髪も随分目にかかるようになりましたからねぇ、さくさく~っと切っちゃいましょう! お目目も悪くなっちゃいますよう?」
「わ、わか、わかりました?!」
矢継ぎ早にぐいぐいと腕を引かれ、はいつの間にか立たされている。間近で見るパッフェルは、焦げ茶色の目と髪を持ち、均整の取れたプロポーションの持ち主で、綺麗なお姉さんといった風貌だ。しかし、綺麗なお姉さんにしては、あまりにも力が強い。乱暴にされている訳ではないのに、全く抵抗が出来ない。
(さ、さすがお抱えエージェント……、……いやエージェントって何……??)
行ってもいいものか、ちらりとエクスを見ても、やっぱりいつもの顔で笑っている。
「よろしくねパッフェル。もさっぱりしておいで」
「う、うん。あ、バルレルも行こ」
『勝手に行け』
石に手を伸ばすと、エクスの小さな手がそれを抑えた――から、は咄嗟に飛びかかった。
椅子と机と机の上に置いてあったノート、ノートから破ったページ、羽根ペン、インク、石を乗せておいたはんかちが、まとめて全て床にひっくり返った。がたん、がちゃんと嫌な音を立てたのは椅子と机とインク壺で、床に、黒い水溜まりが広がった。
「――大丈夫、彼は、ボクが見ておくよ。ちょっと話したいこともあるしね?」
押し倒されたエクスは涼しい顔で、手の合図だけでパッフェルを制している。にはその仕草は見えない。見えていても、見ていない。
威嚇する獣のように息は荒く、エクスの胸元にむしゃぶりつく。
ただひたすら、石に触れさせまいとして。
「それに、着替えるんだろう? 一緒っていうのは、どうかなぁ」
「そうですそうです、男子禁制ですよう!」
ちっとも揺れることのない、のんびり変わらない口調。続いてパッフェルのからりと明るい声。
ぱちり、ぱちり、瞬きをして――徐々にの目の焦点が、合っていく。
「そっ、か」
「そうだよ。大丈夫、彼は、ボクがきちんと見みておくよ」
幼い子供を諭すように、エクスは繰り返す。
そこでようやく、きつく握りしめていた石を、はおそるおそるエクスに渡した。
力が緩んだところを見計らい、パッフェルはひょいとを立ち上がらせる。
「ささ、様お手をどうぞ♡」
「――――あ。はい、えっと、じゃあちょっと行ってくるね……?」
「うん、いってらっしゃい」
やり取りはごく穏やかだった。まるで何もなかったかのように。
散らかった床と、そこで体を起こして座る蒼の派閥の総帥が、逆に歪に見えるほど。
『ケッ』
――あァ、本当に気色悪ィ。
この場にいる悪魔だけが、正しい感想を抱いていた。
「……もしかして、実は一緒に行きたい? バルレルのえっち」
『死ね』
「生きる!! えへへ、また後でね」
返事が貰えるならなんだって嬉しいは、石に向かってひらひらと手を振る。
(あれ、)
パッフェルに手を引かれたので、それらに目に入ったのは一瞬だった。講堂を出て、「こちらですよぅ」と案内されるがまま進んでいく。
椅子と机と机の上に置いてあったノート、ノートから破ったページ、羽根ペン、インク、石を乗せておいたはんかち。インクの、黒い水溜まり。
(なんで倒れてるんだろ)
改めて、ボクは蒼の派閥総帥、エクス・プリマス・ドラウニーだ。よろしくね。
わざわざ一対一になって、一体何を言うのかと思ったら。だァれがよろしくするかよと吐き捨てた。ニンゲンなんざ誰一人信用する気はないが、とりわけ目の前のガキは得体が知れない。外見だけガキのニンゲン。どうせ何か怨みでも買って呪われたんだろう。関わるつもりは微塵もないのに、きみ、過去から召喚されてるね、と、なんてことのないように言葉にするので、はァ? と流石に声が出てしまった。方角からして恐らく帝国だろう。となると、あの怪我の状態から見るに、元々実験体として召喚されたのかな。そこから、あの子が無理やり喚び出した。過去からの二重誓約なんて、初めて見たよ。まあそれも、昨日の誓約で解呪されているけれど。時間も二重誓約も飲み込むなんて、全くでたらめで嫌になっちゃうよ。随分と昔から喚ばれているようだけど、きみが――きみたちが殺したい人間は、そうだね、ううん、そう、まだ、生きている。よかったね。あとはサモナイト石の門だけど、どうやらきみ専用みたいだね。ほんとうは、いつでもリィンバウムに来れるだろう? 腹が立つ。すらすらと、聞いてもないのによくもまあ。今わかることは、それくらいかな。どうだい、ちょっとはボクとよろしくする気になったかい。そこでようやく、クソ喰らえと返してやった。まあまあ、仲良くしようよ、あの子を殺し損なった者同士。そうだろうとは思っていたが、こうもあっさり認めるか。とにかく不快で不愉快で、やっぱりあん時殺せばよかったと歯軋りする他なかった。
しゃきん、しゃきん、鋏を入れる涼やかな音が気持ちいい。目はつぶっていた。
連れて来られた部屋には既に色々と準備がされていて、大きな姿見や上等そうな椅子が置いてあった。髪を切った後は制服のために採寸をするらしい。制服? 疑問もあったが全て言われる通りにしていた。年上のお姉さん、ということもあって、無条件に安心してしまってるのもあった。でも、さっきはじめましてをしたのに、全然そんな感じがしない。ねぇパッフェルさん、もしかして、いつもごはんとか、いろいろしてくれてたの、パッフェルさんですか。しゃきん、しゃきんと鋏を入れながら、パッフェルさんはそうですよう、と答えてくれた。やっぱり。いつの間にか用意されていて、いつの間にか片付けられていて、さっきみたいに、気配が全くなかったから。私の今のお仕事はコトコ様のお世話ですので、是非お世話させてくださいね。お礼を伝えたら茶目っけたっぷりに返されて、気づかいが、なんだかくすぐったかった。前髪と襟足を整えてもらい、目を開くと視界がずいぶん広く見えた。鏡越しに目が合う。じゃあいつか、ほんとうの殺し方を教えてくれるのは、パッフェルさんですか。そのままにっこりと笑いながら、パッフェルさんは、そうですよう、と答えてくれた。