それまでの日々
一日は、慌ただしくはないものの、忙しい。
生活習慣の改善と、適度な運動・勉強は、速やかに行われていった。
決まった時間に起床と就寝を繰り返し、出された食事は全て平らげる。清潔を保ち、衣服を毎日取り換える。つい最近まで、どうでもよかったこと。
「おすきな色はございませんか?」
パッフェルに問われて、は瞬きしか返せない。やっと色が戻った視界は、まばゆくて、きれいで、きらきらと輝いている。だから、なんでもすきだよ、という答えは間違いでもなかったのに、
「ご用意のし甲斐がありませんねえ」
なんて苦笑いされてしまった。
は“本日のお召し物”というものを、毎日“ご用意”してもらっている。下着と日中の衣服、それから寝間着。昨日は装飾が一つも施されていない質素な膝丈のワンピース、今日は床まで届くほどたっぷり布とレースが使われたドレス。明日は何を着せられるのか、全く見当もつかない。ありとあらゆる服を着せられていたが、もう「着れれば何でもいい」とは思わなかった。
「そうだなぁ……? 紫とか……赤……??」
「あらまぁ♡」
だって、衣服ですら教材だった。
どういう服装が、どういった場面に、どういった身分に、どういった季節に、どういった国に、即しているか。パッフェルの知識量は膨大で、布の産地や流通から、その価値や相応しい所作に至るまで、細やかに教えてくれる。
どんな些細なものでも覚えなければならない、覚える必要があるともう知っていた。
こうしての毎日は、日常に溢れかえる“知らない”を、知識に変換していくものになっていく。
の“勉強”は、絵本から始まった。
『ヒャハハハハハ!! ガキが読むヤツじゃねーか!!』
「わ、笑わないでよぉ?!」
小さな子供が読み書きを覚えるために使っているという、定番の絵本をエクスから手渡されると、バルレルはそれはそれは容赦も遠慮もなく笑った。
「恥ずかしいことじゃないよ、コトコはこの世界に生まれたばかりの状態に等しい。これから一つ一つ覚えていけばいいからね」
(……つまり……赤ちゃんでは……?)
エクスは大真面目に言ってくれたが、なんとなく釈然としない。しかし、爆笑されても赤ちゃん扱いされても、紙面でのたくるミミズはミミズのまま。
「まずは読み書きを完璧に仕上げようか。この離れから出るには、それからかな」
かわいい挿絵がたくさん入った絵本をめくりながら、いつになるんだろ、とぼんやりは思う。そしてはた、と気付く。
「それって、軟禁が部屋から離れに移行したってこと……?」
「庭には出ても大丈夫だよ」
「わーい!」
『……キメェ……』
「えっ?! 何が!?」
にはいまいち理由がわからない。エクスはにっこりと笑っている。バルレルは盛大に舌打ちを落とす。
なんだかここ数日ですっかり覚えのある光景に、は嬉しくなってしまう。気持ち悪がれているのは、さて置き。
ほんとうは反吐が出るけれど、召喚術についても勉強する。
「まず、世界は一つじゃない。そこから理解していこう」
エクスはやさしい先生だった。「文字の練習は後でね」なんて言いながらも、板書はとても丁寧で、写す時間を与えてくれる。にはやっぱりミミズにしか見えないぐにゃぐにゃを、そっくりそのままノートに書き起こした。
「これが“リィンバウム”」
黒板の真ん中、大きな楕円の中心で踊るミミズが、どうやらこの世界を意味しているらしい。はカタカナでルビを振った。
楕円の周りに、エクスは小さく円を足す。右上から時計回り、右下、左下、左上の四つ。それぞれの中にもミミズが足されていくので、
「……周りに世界が四つもあるの?」
「ご名答」
一つじゃないとは言われたけれど、四つも!
は、はぁ、と返事とため息をまとめた声を出した。
「機界・ロレイラル。鬼妖界・シルターン。霊界・サプレス。幻獣界・メイトルパ。各界については、あとで一つずつ詳しく教えていくね」
教壇にはあらかじめ、石が並べられていた。にもなんとなくわかる。魔法の石。きっと、世界ごとに色が違うんだろう。紫は、バルレルの色。
黒、赤、紫、緑、それから、白。
あれ? が首を傾げると、エクスは白い石をつまみ上げる。
「きみは、その四つの世界とは異なる世界から召喚された。ボクらは総括して、“名も無き世界”と呼んでいるよ。解明されていない、四界以外の世界を指す」
わからないものに名前はつけられない。それは確かにそうかもしれない。
「……乱暴だなぁ」
ほんとうにそうだ、と強く思う。召喚術は暴力だった。何回ぶん殴れは気が済むんだろう。高校生だったコトコは殺されてしまったし、元の世界は名前すら無いものにされた。
怒りたいのか、悲しみたいのか、にはなんだかもう、わからなかった。
「名を呼ぶ、名を喚ぶ――真名を開明することが、召喚師にとって一番大切なことだからね」
嫌そうに吐き出して死んだ目をしたにも、エクスはやわらかく笑む。
「だから、きみが悪魔にやったことは、ほんとうにでたらめなんだ。わかるかい?」
「……うん」
どんなに反吐が出そうでも、学ばなければならない。召喚師を知るために、殺すために、自分が呪う世界と、力を、隅々まで。
“運動”は、衰えた体を癒すため、庭の散歩から。
草木や花々の名前を教えてもらいながら、ゆっくりと歩く。
「えっと、あれがアルサック、ですか?」
「はい、正解です♡ 綺麗ですよね~! だから川沿いに植えられることが多いんです、どうしてだかわかります?」
「えっ?! はい! 全然わかりません!!」
「んん~、潔さだけは満点ですね! 正解はぁ、花が綺麗だとそれを見に行く人が増え、土が踏みしめられて固くなるので、地盤固めになるんですよう。川の氾濫防止になるんです♪」
「べ、勉強になるぅ……!!」
パッフェルは非常に優秀な先生だった。歴史・地理・一般常識その他諸々――パッフェルさん印の処世術――と、様々な分野を教えてくれたが、“体育”の先生としてほのぼのしていたのは、最初だけだった。
“運動場”は、地下にある。
一見そうとはわからない場所に階段が隠されており、巨大な空間が存在していた。の感覚で言えば、学校の体育館より更に広い。薄暗く、床も壁も石造りで、所々に魔法陣が描かれた形跡があり、極めつけには中央に、謎の祭壇が鎮座していたりする。
絶対運動場じゃない。
流石のも「生け贄にされるのかな?」と死を覚悟したが、幸いまだその予定はないらしい。
地下では、パッフェルからの“言いつけ”は、絶対だった。
腕立てや腹筋・背筋等には回数の上限はなく、パッフェルから「そこまで♪」と許可されるまで止めてはいけない。地上が懐かしく思える程、端から端まで何十周と走って嘔吐しようが、合図があるまで止めてはいけない。
そしてどれだけ体を酷使しようとも、ここまでは全部“準備運動”でしかない。
“師匠”直々の指導を受けるのだ。
具体的に言えば防御が間に合わないまま一つ一つ丁寧に急所を殴打され、文字通りその身をもって覚えていく。
「様、今日も人体についてお勉強しましょうね♪」
「はあーーーーーーーーーーい!! おえっ」
ヤケクソの空元気が地下に反響し、大声のついでにまた吐いた。
ただ、“地下行き”は毎日ではなかった。「筋肉を育てるためです♡」と言って、数日置きに行われた。毎回、のバキバキになった体をマッサージしてくれる。パッフェルはの状態を見極めて、きちんと管理しているようだった。
「ちょおーっとだけゴリッとしますからね~」
「ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ」
ちなみに、マッサージにも激痛を伴う。
運動がない日、はほとんどずっと机にかじりついている。
ミミズこと、リィンバウムの言語がなかなか倒せない。
思っていたより、ものすごく、難しかったのだ。
なんせ、耳で聴いた単語と、文字で書く単語で、音や読みが違うことが多い。誓約の力により、言語が統一されているせいだった。
「誰だこんな力生み出しやがったの呪ってやるもう呪ってたさらに呪われろふざけんな…………」
「様ぁ、お口が悪くなってますよう? はい、もう一回♡」
「どなたかしらこんな素晴らしい力をご誕生させたお方は心よりお祝い申し上げますわね…………」
普段は、の耳に届くリィンバウムの言語が、日本語に変換されているだけ。が発する日本語が、声に出した端からリィンバウムの言語に変換されているだけ。理解した訳でも、習得した訳でもない。
英語で例えるなら、相手が「
文字の意味と読みを正しく理解し、頭の中で変換し、声にする。少しの違和感もなく、自然と口から出るように。
ひたすら書いて読んで書いて読んで、そのうち腱鞘炎で羽ペンさえ持てなくなった。筋肉痛も相まって、指が痙攣し、上手く保持していられない。そもそも椅子にも座れない。全身がぎしぎしと悲鳴を上げ、何をするにも激痛が走った。それでも、必要だと知っていた。やるべきだった。包帯で手と羽根ペンをぐるぐる巻きにして、立ったまま机に向かう。
そういう日が続いた。何日も何日も、続いた。
いつからか、どこも痛まなくなった。吐かなくなった。震えなくなった。
脳と体を毎日毎日繰り返し使い潰すように働かせた。徐々に、少しずつ、飲み込んでいく。学習していく。
「あいうえお」
呟いて、書く。
「かきくけこ」
呟いて、書く。
しばらくして五十音が紙面に踊る。シルターンでは、こういう字を使っているという。――違う。ちがう。ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう。
時々、ほんとうに時々、無性に、喉を、胸を、掻き毟りたくなる夜が襲ってくる。
そうやって、ぼんやりしていると、決まって槍が降ってきた。なんにもない頭上に現れて、紫の炎を纏った槍が、の脳天目掛けて降ってくる。ズドッ、と随分重い音がするのに、床に刺さると消えてしまう。初めのうちは避けきれず、血塗れになっていただったけれど、今夜は髪の毛が数本舞っただけ。運動の成果が出たなぁ、とはうれしくなった。
悪魔は負の感情を好むらしい。
それを糧にすると、エクスから受けた授業の中で教えてもらった。それならいっぱいあげられる、とは反射的に考えたけれど、なかなか需要と供給は一致しないみたいだった。
きっと、さっきのは、おいしくないんだろうな。
「ありがとう、バルレル」
ぼんやりしている暇は一秒もなく、死ぬのも殺されるのも今じゃない。
羽ペンの使い方にもすっかり慣れた頃には、ペンだこはもう指の一部と化していた。辞書を開いても、かつてひしめいていたミミズの大群は姿を消し、文字として認識できる。そういう風になった。そういう風に、した。
が読み書きを完璧に習得するまで、丸一年が経過していた。
今日の“ご用意”された服は、どことなくエクスが着ているものと似ていた。同じシンボルマークが、幾つかついているせいだろう。は、ばってんだ、と胸元を見下ろす。
ばってんは二種類あって、そのままのものと、丸で囲まれたもの。
白を基調としたワンピースの中は、首まで覆う薄灰色のセーター。模様が入った青いローブを、赤い丸ばってんが胸元で留めている。留め具は、大きさも平べったさも、コップを乗せるコースターくらい。
帽子と靴も、白。帽子には大き目の赤いばってんが二つ、両側についている。靴には、胸元のものより小ぶりの青い丸ばってん。
それから、厚手のタイツ。「赤にしてみました♪」と言われたので、前に答えたすきな色にしてくれたんだろう。
白と、赤と、青。
「蒼の派閥にようこそ」
これが“制服”なんだと、はそう言われて気が付いた。