昼下がり、展望台で足を止め、景色の穏やかさに目を細めた。
天気だって悪くない。たとえ空の七割が雲でも、定義として晴れている。
シルフが潮の匂いを運んでくる。「Hello」と軽く挨拶をすれば、嬉しそうにはにかんだ。
くるくる踊り、彼(もしくは、彼女)は小さな小さなつむじ風になって、笑いながら姿を消した。
海水浴場として歴史の古い、この街は崖の上にある。目の前に広がる“彼女”を見下ろすかたちだ。
空の青とは決して交わらない、青。
素朴な遊歩道を歩く。途中に公園だってある。幾人かの小さなお子が遊んでいる。
悪くない。とても悪くない。It's a beautiful day.
細い坂道を下って会いに行く。
会いに行く、と言うのは少しばかり正しくない。だって、いつだって、どこにだって。
当たり前の顔で隣にいる。
そういう存在だった。
「あー……、……Hello?」
そういう存在なのだが。
――白いレースを縁に縫ったような、華奢な波が寄せては返す。
その波のかたちに沿って、濡れた砂だけが黒い。その黒と、乾いた白の、ちょうど間あたり。
ごろん、と。彼女は寝転んでいる。頭は、丘の方へ。足は、海の方へ。
(はろー)
そのままの姿勢で、淡々と。いたって普通の表情で、挨拶は返される。
一見、打ち上げられた遭難者にしか見えない。
知る由もない者には、二度も三度も四度も見たって、そうとしか見えない。
「おっ前なあ……」
(……? なあに?)
こう無防備に、あまりにも無防備に――つまりほとんど全裸で――横たわっていられると、がくりとしゃがみ込みたくもなる。そうして近くなった距離に、砂浜とよく似た白い顔が微笑んだ。つられて笑う。
仕方ない。彼女は海に在るものしか着ないのだから。
はじめは、こう思った。着ている服が、よくよく泳いでいるうちに、色褪せて、生地は傷み、ぼろぼろになってしまうのだと。
けれど見慣れたいつかの懐かしい、数多の時代の衣服らを、これまたしれっと着るものだから。すぐに思い直したのも昔の話。
彼女は沈んてきたものならなんだって身に纏う。全く呆れるほどいい趣味だ。
たとえば、流されてきた誰かの水着。
棄てられたビニール袋。
沈没船で一人踊る、豪奢なドレス。
かろうじて原形を保つ軍服。
全く、呆れるほどいい趣味だ。感嘆のため息しか出ない。何度、敬礼をしたことだろう。
I Know,もちろん知っていた。海底に百貨店なんかないってこと。
「今日はまた、随分素敵なお召し物だな?」
(でしょう)
そんな訳で度々、服ではないものだって着てしまう。どこか得意気な様子にまた笑う。
皮肉が通じた試しはない。そもそも、皮肉として言った試しもない。
彼女が“お召し物”に選んだものは細長い海草で、その体を申し訳程度に覆っていた。
正直なところ笑えない。
安いポルノ雑誌の――それも一昔前の――表紙みたいな格好なのに、ちらりとでも性的に見えないのは、そこに羞恥心の欠片も含まれてないからだろう。
「70G――いやHか」
(……? ……じー? えいち?)
「こっちの話だ」
しかしながら、常日頃から観察眼を養うことも大切だ。英国紳士としては。
しゃがみ込むのもいい加減疲れて、そのまま座ることにした。砂ならはたいて落とせばいい。
ふと思い立って、手袋を外して直に触れてみる。熱くない。それもそうだ、なんてったって空の三割分しか、太陽はこちらを覗けない。それでも晴れは晴れだ、定義としては。
証拠に水平線がきらきら光る。彼女の髪も、同じように。きらきら光る。
風になびいたその一房が、波と重なって見えた。その一房を捕まえる。ひいやりと、冷たい。
「ん、」
それで気付いた。寝そべっていたはずの彼女が、いつの間にか横に並んでいる。
座った瞬間だったか、手袋を外した拍子だったか。それとももっと前だったか。
いつだってそうだ。当たり前の顔で隣にいる。
she is the sea.
彼女は海。
だからこの身を預けることは、なんら不思議なことじゃない。
「庭だったんだがな」
(ななつのわたし?)
「そう」
潮騒が耳を打つ。伸ばされた手に頭を撫ぜられた。寄せては引くそのリズムで、ゆっくりと。
島国はこうして海に抱かれる。彼女の膝は枕として優秀だ。いつも。
(わたしは、ひとつだよ)
――この地球は、細切れだ。空も、陸も、海さえも。線を引き、法を敷き、名を介し、分かたれる。
それでも、
水のしぶきが、うねる泡が、声となり、響く。
誰の体にも、等しく。
「……そうだな」
深い深い、青。
二つの瑠璃色がこちらを覗いている。いいや、覗いてるのはいつだって、こちらの方か。
見上げた彼女の瞳は、この星そのものに、思えた。